能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

箙(えびら)解説

前シテ:里人     後シテ:梶原源太景季     ワキ:旅僧     ワキツレ:従僧(2~3人)     アイ:生田の里人
作者:世阿弥(一説)     出典:「平家物語」巻9 二度の懸  源平盛衰記

あらすじ

(平家物語では)
西国に落ちた平家一門は、再起を期して八島(屋島)に形ばかりの板屋の内裏や御所を造ります。一方、木曽義仲・十郎蔵人行家は後白河法皇(院)とともに都に入り権勢を誇りますが、平家との戦いでは、備中水島合戦、続く播磨室山の戦いと、連続して敗れてしまいます。年が変わり寿永三年(1184年)、木曽殿は、数で圧倒する頼朝軍に対し、勢田(瀬田)橋の戦、宇治橋の戦で迎え討つのですが、敢えなく敗北し、木曽義仲は粟津の松原にて敵の矢に射られて討ち死、今井四郎兼平は自害して果てました。(能「兼平」「巴」参照)この頃には、平家一門も屋島を出て福原に戻っています。そして西方に「一の谷の砦」、東方に「生田の森の砦」を築き、頼朝軍との戦いに備えています。一方頼朝軍も大手軍は蒲御曹司範頼が大将で5万余騎、摂津から生田の森を目指します。搦手(からめて)軍は九郎御曹司義経が大将で1万余騎、丹波路から一の谷を目指します。途中さらに二手に分れ、先陣を争う熊谷次郎直実等は、播磨路から「一の谷」の西方を攻め入り、義経の率いる3千余騎は、山の手鵯越(ひよどりごえ)に向かいます。大手、搦手の激戦でも容易に決しなかった戦況は、義経による「鵯越の坂落し」の奇襲によって、平家方の総崩れとなります。本曲は生田の森での合戦が舞台です。梶原平三景時、嫡男源太景季、次男平次景高親子も参戦しています。源平盛衰記には「中にも景季は心も剛の人に勝り、数奇たる道も優なりけり、咲き乱れたる梅が枝を箙(矢をさし入れて背中に負う武具)に副えてぞ挿したりける。かかれば花は散りけれども匂いは袖に残るらん「吹く風を 何いといけむ 梅の花 散り来る時ぞ 香はまさりける」という古歌までも思い出ければ、平家の公達は花箙とて優なり、やさしと口々に感じ給える」とあります。親子共々敵陣に突入し、戻ってきた時には、嫡男源太景季の姿がありません。父景時は戦場にとって返し、景季を探します。景季は敵五騎にとりかこまれ、防ぎ戦っています。景時はこれを助け、敵陣を逃れます。これを「梶原の二度駆け」といいます。
(前場)
西国の僧が都見物の途中、生田川に着きます。そこに色あざやかに咲いている梅ノ木がありました。来合わせた里人に問うと、「箙(えびら)の梅」だと答えます。名前の由来を聞くと、昔、源平合戦の折、源氏方の梶原景季(かげすえ)が、この花を箙にさして笠印として、奮戦活躍したことから箙の梅の名が残ったと説明します。そして、生田・一の谷の合戦の模様を話します。夕暮れになり旅僧が一夜の宿を乞うと、里人は自分は景季の霊だと名乗って、梅の木陰に消えうせます。
(後場)
旅僧が花の木陰で仮寝していると、武者姿の景季が現れ、修羅道の苦しみを見せ、また、箙に花をさして戦った、生田の合戦の有様を見せ、夜明けとともに弔いを願い、消えていきます。

記述にあたっては、杉本圭三郎全訳注・平家物語(覚一本)並びに 水原一校注「新定源平盛衰記」新人物往来社刊を参考にしています
(文:久田要)