能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

大原御幸(おはらごこう)解説

前後シテ:女院(にょおいん)     ツレ:大納言局・阿波ノ内侍     後ツレ:法皇     後ワキ:萬里小路中納言     前ワキツレ:大臣
ワキツレ:興昇(二人)     アイ:供人
作者:世阿弥(一説)     出典:「平家物語」灌頂巻

あらすじ

(平家物語では)
元暦二年(8月より文治元年)(1185年)3月、平家は壇ノ浦の戦に敗れ滅亡します。子息の先帝(安徳天皇)と二位の尼(清盛の北の方・建礼門院の母)の入水に引き続き、入水するも助けられてしまった建礼門院は、都の吉田辺りにお入りになられた後、5月に出家され、9月に大原の里の寂光院に入ります。
翌、文治二年4月、後白河法皇が建礼門院を尋ね、大原寂光院に御幸されます。後白河法皇は、建礼門院の、かつての舅(しゅうと)です。平家台頭の当時から、平家全盛、平家追討の全ての政治の裏表に通じた傑物です。最初は平家を支持し、源氏が台頭すると色目を使い、最後には平家追討の院宣を出し、建礼門院の流浪生活の原因者でもあります。おまけに、後には義経追討の院宣も出します。徹頭徹尾天皇家親政擁護の実行者です。建礼門院は会うのをためらいながらも、お会いします。そして、自分は生きながらに六道を体験してきたと語り始めます。清盛の娘として、天子の国母として、すべて思うがままの宮廷生活でした(天上)。都落ちして後、愛別離苦の四苦や八苦を全て体験した(人間)。浪の上で朝から晩まで生活し、食べ物があっても調理できず、目の前に水があっても海水で飲むことも出来ない(餓鬼)。親は子に先立たれ、妻は夫に別れ、釣り船も敵かと肝をつぶし、遠くの鷺も源氏の白旗かと気をもんだ(修羅)。海に沈んだ帝や二位尼など面影を忘れようとして忘れられず、悲しみに耐えようとして耐えられません(地獄)。都に戻る途中明石浦で、内裏より立派なところに威儀正して居並ぶ先帝と一門の夢を見、「結構な所ですね、ここには苦しみはないのですか」と尋ねると、「龍畜経の中に書いてあります。よくよく後世を弔ってください」といわれました(畜生)。そんな話しをするうち、法皇は、寂光院の鐘の音に日の暮れを知られ、名残惜しくも帰られました。
(前場)
後白河法皇が、大原の寂光院へ建礼門院をたずねようと準備をします。一方、女院は都の雑音も聞こえず、人目もない生活を、心安らかに思い暮らしています。折りしも、大納言局と女院は樒(しきみ)や蕨を取りに出かけます。そこに後白河院一行が着き、庵の外を眺め侘しく思いながらも案内を乞います。阿波ノ内侍が応対し、女院の留守を伝え、庵室の内に案内しますと、暫くして女院が帰って来ました。そして、少し躊躇するのですが、気を取り直しお会いになります。
(後場)
法皇が「或る人が言っていたのですが、女院は六道の有様をご覧じたとか……」と問いますと、女院は、生きながらにして六道の体験をしたことを話します。また「先帝の最期の有様を……」と問いますと、平家一門の最期や、「波の底にも都あり」と、先帝と二位尼の入水の有様を語ります。そして、名残は尽きないが、還幸ですよと帰りを勧め、柴の戸まで見送りに出、また庵室での日常に戻られました。

記述にあたっては、杉本圭三郎全訳注・平家物語(覚一本)を参考にしています
(文:久田要)