能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

兼平(かねひら)解説

前シテ:尉(舟人)     後シテ:今井兼平     ワキ:旅の僧     ワキツレ:従僧     アイ:矢橋の渡守
作者:不詳     出典:「平家物語」木曽最期

あらすじ

(平家物語では)
西国に落ちた平家一門は、再起を期して八島(屋島)に形ばかりの板屋の内裏や御所を造ります。一方、木曽義仲・十郎蔵人行家は後白河法皇(院)とともに都に入り権勢を誇ります。しかし、寿永二年(1183年)木曽義仲による平家追討軍は、備中水島合戦に敗れ、続く播磨室山の戦いにも敗れてしまいます。その頃、洛中では、木曽殿の軍勢が乱暴狼藉をはたらくことが多く、評判はよろしくありません。木曽義仲本人は律儀な田舎者で、権謀術数に長けた都の貴族とは肌合いが違います。例えば、猫間中納言光隆卿が会いに行くと、「猫が人に対面するか……」と笑い合ったり、鼓の名手・壱岐判官知康(鼓判官)が院の使いで行くと、「あなたが鼓判官とよばれるのは、多くの人に打たれなさったからか、張られなさったからか……」などと言ったりして噛み合いません。そんなこんなで、木曽殿と院が対立し、この年暮れには、法住寺(院の御所)で合戦が行なわれます。院側は大敗し、法皇も後鳥羽天皇(当時、安徳天皇と二人の天皇です)も幽閉の身となります。年が替わり寿永三年、都には木曽義仲、西国には平家一門、美濃・伊勢には源頼朝軍が都に迫っています。木曽義仲は平家と和平交渉のかたわら、少ない軍勢を三方に別け、勢田(瀬田)橋には今井四郎兼平を置き、他に宇治橋と、一口に軍勢を置き、頼朝軍との戦いに備えます。宇治橋の木曽軍を破った源義経は、すぐに院の御所へ向かい警護を固めます。院と帝を伴って北陸へ落ちようと考えていた木曽殿は思惑が外れ、勢田へと向かい、一方勢田の守りを破られた兼平と、打出浜で落ち合います。もはやこれまでと、最後の戦いを挑み、粟津の松原で散っていきました。
(前場)
木曽の僧が義仲の跡を弔うため粟津が原へ向かい、矢橋の浦に着きますと、柴舟がやって来ます。便船を頼むと、渡し舟ではないのでダメだの返事。自分は「僧なので御利益があるよ」と乗せてもらいます。 舟の中では周辺の名所を教えてもらいながら、舟は粟津が原に着きました。僧は所の者から木曽義仲と今井兼平の話しを聞き、夜となり、僧は粟津が原で弔いをしています。
(後場)
やがて甲冑姿の今井四郎兼平の霊が現れ、昨日の舟人は、実は私だったと言い、悟りの岸へ渡してほしいと頼みます。そして、戦に敗れ、主従二騎となったときの有様を語り、義仲が深田に馬の脚をとられ立ち往生の際、矢に射られ最期を迎えた場所がここだと、主君の跡の弔いを願います。そして、思い定めて自害の手本よと、太刀を銜(くわ)えて、馬から逆さまに落ちて貫かれた自分の姿を見せます。
(おわりに)
大津市馬場には義仲を葬った墓のある「義仲寺」があり、その塚の隣に義仲びいきの芭蕉の墓が、遺言によって並んでいます。ここから東南3キロほど離れたJR石山駅の近くには、江戸時代に建てられた今井四郎兼平の墓があります。そのあたりが往古の粟津の松原でした。

記述にあたっては、杉本圭三郎全訳注・平家物語(覚一本)を参考にしています
(文:久田要)