シテ:覚明 ツレ:義仲 ツレ:池田次郎 ツレ:木曽郎党(5~7人)
作者:不詳 出典:「平家物語」願書・倶利伽羅落
あらすじ
(平家物語では)
寿永2年(1183年)5月 越中・加賀の国境にある砺浪山(となみやま)の倶利伽羅峠(くりからとうげ)で木曽義仲軍は平家軍に大勝し、その後の平家没落の端緒を開きました。
それに先立つ前年、木曽義仲は平家方・城四郎助茂を大将とする軍勢に、「横田河原の合戦」で圧勝し、北陸道に勢力を広げます。それに対し、平家方は平維盛・通盛を総大将とする、10万騎の大軍を北陸道へ差し向けます。ところで、寿永元年は大飢饉の年でして、平家方は院宣を発して、道々の荘園などから兵糧米を奪い取りながらの進軍であったと伝えています。まず、加賀の国・火打が城で木曽義仲軍・在地勢力の合同軍との合戦があります。これは、在地勢力の一部が平家に内通したことで、平家方が勝利します。勝利に酔いながら、いよいよ本曲の舞台、倶利伽羅峠へと駒を進めてまいります。平家方10万騎、対する木曽方は半分の5万騎。正面からぶつかり合うのは平家方に有利。木曽殿は作戦を考えます。①7手に分れて相手を包囲する、②源氏の白旗を沢山用意し、一斉に旗を立て鬨の声をあげる、③主力軍が適当に相手をして、日の暮れるのを待つ、④日の暮れた後、平家の大軍を「倶利伽羅が谷」に追い落とす、というものでした。
木曽殿の主力軍は砺浪山(となみやま)北端の羽丹生(はにゅう)に陣を敷きます。平家の大手軍も砺浪山です。木曽殿の陣は、たまたま八幡宮の領地内にあり、そのことを知ると木曽義仲は大変喜び(八幡宮は源氏の守り神)、書記の太夫房覚明を呼び、願書を書かせます。この覚明、実は頼政の挙兵の際「清盛は平氏の糟糠(そうこう)、武家の塵芥(じんかい)」と書いて、平清盛に命を狙われた人物です。願書に主だった13人の鏑矢(かぶらや)を添えて奉納します。そうすると、山鳩が三羽、源氏の白旗の上を旋回し、木曽殿は勝利を確信します。作戦通り、両軍鏑矢の矢合わせで時を稼ぎ、日が暮れてきたときに、どっと鬨の声をあげ、白旗を雲のごとくさし上げると、平家軍は総崩れとなって谷に落ちていきました。助かったのは、主力7万騎のうち、わずか2~3千という平家の大敗北でした。
(能のあらすじ)
義仲は勢を七手に別け主力1万騎をもって埴生に陣取ります。池田次郎が言うには、敵は砺波山山中猿が馬場に陣を取ったことを伝え、さらに我が陣は偶然八幡宮の境内にあると伝えます。義仲はこのことを吉兆と捕らえ、覚明に戦勝祈願の願書を書くよう命じます。覚明は願文を読み上げ、それに義仲は上差の鏑矢を添えて奉納します。その後門出を祝す酒宴が始まり、覚明は一差し舞いを舞っていると、八幡宮の方から山鳩が飛んできたので、義仲はじめ軍兵皆一同伏し拝み、明日の勝利を得ることができました。
(おわりに)
源平盛衰記には、義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて、敵中に向け放つという有名な一場面があります。これは、中国の故事「火牛の計」を下敷きにして、後代潤色されたもののようです。
記述にあたっては、杉本圭三郎全訳注・平家物語(覚一本)を参考にしています
(文:久田要)