シテ:平忠度 ツレ:藤原俊成 トモ:俊成の従者 ワキ:岡部六弥太
作者:内藤藤左衛門 出典:「平家物語」忠度都落・忠度最期
あらすじ
(平家物語では)
平家は、寿永2年(1183年)5月11日・木曽義仲との倶利伽羅峠の合戦に大敗し、続いて21日の篠原の合戦にも破れ果てます。都では、親は子に先立たれ、妻は夫に死に別れ、どの家も門を閉ざし、声々に念仏を唱え、泣き叫ぶ声がおびただしいのでした。平家一門も、もう戦う意欲も失せてしまったようです。
重盛亡き後の平家の棟梁は前内大臣宗盛(弟)です。宗盛は院(後白河法皇)と主上(安徳天皇・6歳)をお連れして、西国へ御幸・行幸をと考え、建礼門院に伝えます。しかし、法皇はいち早くこのことを察して、院の御所を脱出し鞍馬へ御幸してしまいます。宗盛は仕方なく思い、安徳天皇と三種の神祇をもって西国へ行幸することになります。当時は院政の時代です、皇室の実権は院にありますので、後白河法皇が平家を見限ったということは、即ち平家が朝敵になったことを意味します。
薩摩の守忠度(清盛の末の弟)は武芸にも秀でていますが、和歌の名手でもあります。行幸の途中で藤原俊成の屋敷へ取って返し、俊成に、「勅撰集が撰ばれるときは、生涯の名誉に一首でも撰に入れてほしい」と秀歌百余首の巻物を預けます。後の世、千載集が撰ばれたとき、一首撰に入るのですが、忠度は勅命で勘当を受けた身なので、名前を出すことができません。仕方なく「読み人知らず」とされてしまいます。
故郷花という題にて「さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな」
忠度は一の谷の合戦に敗れ、部下の兵百騎ほどと落ちていきます。そこに猪俣党の岡部六野太忠純が追いついてき、「いかなるお方か」と問い、「これは味方であるぞ」と振り返ると、歯を鉄漿黒(かねぐろ)で染めています。これは平家の公達に違いないと忠純は組みついてきます。百騎の兵は諸国から駆りたてた武者、一騎も駆けつけず我先にと逃走してしまいます。忠度はこれまでと討たれますが、六野太は討った武将の名前が分らない。箙(えびら)に結びつけてあった文を解いてみますと、旅宿の花という題の一首があり、忠度と書かれています。「ゆきくれて 木のしたかげを やどとせば 花やこよひの 主ならまし」
(能のあらすじ)
岡部六弥太忠澄は、西海(一の谷)の合戦で討ち取った平忠度がもっていた短冊を、忠度の師・三位俊成卿に届けます。短冊には、旅宿の花という題で「行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし」とあります。俊成は文武二道に秀でた忠度を偲びます。やがて夜となると、不思議なことに忠度の霊が現れ、「千載集に一首入れていただいたのは嬉しいのですが、読み人知らずと書かれたことが心残り」と訴えます。俊成は「この歌があるかぎり、御名は消えることはないので、心配するな」と諭します。忠度は、「さざなみや志賀の都………」の歌をと舞いを舞い、古(いにしえ)よりの和歌の成り立ちや変遷を述べ、和歌の徳について語ります。すると突然、修羅の苦しみが忠度を襲い、修羅王と梵天・帝釈天の争いに、刀を抜いて加わります。天よりは火車が降りかかり、地よりは鉄刀が足を貫き、居る場所もない有様。
暫くすると、梵天も歌の心を感じ、剣の責めをやめ、夜明けとともに姿を消していきます。
記述にあたっては、杉本圭三郎全訳注・平家物語(覚一本)を参考にしています
(文:久田要)