能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

正尊(しょうぞん)解説

前・後シテ:土佐坊正尊     ツレ:源義経     子方:静御前     ツレ:江田源三・熊井太郎後     ツレ:姉和光景・正尊の郎党(多数)
ワキ:武蔵坊弁慶     アイ:婢
作者:観世弥次郎長俊     出典:「平家物語」土佐坊被斬

あらすじ

(平家物語では)
平家と源氏の戦いは各地で行なわれましたが、平家一門は都を落ち西国に再集結します。一方平家を追い落とした木曽義仲の絶頂も約半年。頼朝軍(大手将軍:蒲御曹司範頼 搦手将軍:九郎御曹司義経)に瀬田・宇治の戦に破れ、義仲は大津の粟津の松原で討たれてしまいます。その後、源平合戦は「一の谷」「屋島」と続きますが、どちらも義経の奇襲により源氏方の勝利となります。そして最後の決戦地「壇ノ浦」での海戦となります。わが国で初めてといってよい大海戦です。物語では平家方1000余艘、源氏方3000余艘と書かれていますが、少々大袈裟な数字とは思います。敗れた平家の主だった人々は、討ち死に、入水、生け捕りと、運命は分かれますが、ここに平家一門は全滅しました。
三連戦に於ける最大の殊勲者が九郎判官義経であることは、京の人々は皆疑うことはありませんでした。しかし、鎌倉の事情は違いました。頼朝自身の考えや、源氏の嫡男としての頼朝を取り巻く多くの武将の思惑は、義経と相容れませんでした。平家の総帥宗盛親子を連れ鎌倉へと凱旋する義経に対し、義経主従のみ鎌倉に入れず、腰越に追い返されます。書状(腰越状)でもってひたすら嘆願するのですが、頼朝は受け入れず、面接を終えた宗盛親子(途中で処刑)を伴って京へ帰るよう命じます。頼朝と義経の間の溝は深まり修復の兆しもありません。文治元年(1185年)9月、鎌倉から義経追討の刺客が送り込まれました。名を土佐坊昌俊(しょうしゅん 能では正尊)といいます。
(前場)
義経は、鎌倉から土佐正尊なる者が上京したと聞き、これは自分を討つ者と察し、武蔵坊弁慶を迎えにやり、召し連れます。鎌倉殿からの手紙もなく、義経を討ちにきたのだろうと問い詰めると、熊野参詣のための上洛だと言い訳し、起請文を書いて読み上げます。もとより虚言とは思うものの、酒宴を開き、磯の禅師の娘の静(しずか)が舞いを舞いもてなす内、正尊は帰っていきます。
(後場)
弁慶が正尊の宿舎を偵察しますと、案の定夜討の支度をしています。義経は覚悟の上と身支度をして、中門を開いて、敵の来るのを待っています。そして、正尊一党が押し寄せ、義経方の江田源三、熊井太郎、弁慶などと争ううち正尊の郎党は次々と討たれます。今は叶はじと、正尊は馬を下り義経や静と渡り合います。そこを弁慶が生け捕りにしてしまいました。
(おわりに)
平家物語や能楽では、頼朝・義経の関係悪化の主因が、梶原平三景時の讒言にあったと書かれていますが、不思議なことに、頼朝には義経方の言い分を聞き取る姿勢もありません。それ以前の問題だったように思われます。もう一人の兄弟であり平家追討の功労者である範頼も、この後処刑されてしまいます。

記述にあたっては、杉本圭三郎全訳注・平家物語(覚一本)を参考にしています
(文:久田要)