シテ:千手前 ツレ:平重衡 ワキ:狩野介宗茂
作者:金春禅竹(一説) 出典:「平家物語」千手前
あらすじ
(平家物語では)
寿永三年(1184年)木曽義仲は大津粟津の松原にて討ち死にし、源範頼・義経軍が京の都を制圧しています。この頃には、平家一門も屋島を出て福原に戻っています。西方に「一の谷の砦」、東方に「生田の森の砦」を築き、10万余騎で頼朝軍との戦いに備えています。一方頼朝軍も大手軍は蒲御曹司範頼が大将で5万余騎、摂津から生田の森を目指します。搦手(からめて)軍は九郎御曹司義経が大将で1万余騎、丹波路から一の谷を目指します。途中さらに二手に分れ、土肥二郎実平率いる7千余騎は、播磨路から「一の谷」の西方を攻め入り、義経の率いる3千余騎は、山の手鵯越(ひよどりごえ)に向かいます。大手、搦手の激戦でも容易に決しなかった戦況は、義経による「鵯越の坂落し」の奇襲によって、平家方の総崩れとなります。この戦で、かつて栄華を極めた平家一門の武将の多くが討ち取られます。謡曲にある「通盛」「忠度」「知章」「経正」「敦盛」などです。その中で異色なのは、生け捕りになった平重衡(しげひら)です。京で晒し者にされますが、人々は「奈良の寺院(興福寺・東大寺)を焼き滅ぼした仏罰だろう」と申しあいます。鎌倉の頼朝から引き渡すよう要請があり、梶原平三景時の護送で鎌倉へ送られます。途中「逢坂の関」での話が謡曲「蝉丸」に、遠江国池田宿での話しが「熊野」に取り入れられます。
重衡が鎌倉に到着すると、すぐに兵衛佐頼朝に対面します。頼朝は「お目にかかろうとも思わなかったが、奈良の寺を焼いたのは清盛の命令なのか、貴君の処置だったのか」と聞いてきます、重衡は「入道の命令でもなく、自分の意思でもない。衆徒の悪行を鎮めようとし、思いがけなく伽藍の滅亡になった」と答えます。頼朝は、重衡の身柄を伊豆国住人狩野介宗茂に預けます。狩野介は湯殿をととのえ湯浴みをおさせします。身を清めて処刑するのであろうと思っていると、二十歳程の色白の優美な女房と14・5歳の童が入ってきて世話をし、髪を洗います。その夕方、雨が降ってもの寂しい頃。頼朝は「よくよくお慰め申し上げよ、怠って咎を受けてから頼朝を恨むな」と、女房(千手前)を琵琶・琴をもって参上させた。今様を4・5遍歌い、重衡も琵琶をとり祝賀の曲を弾きます。この後、重衡は奈良で処刑されます。それを聞いた千手前は出家し善光寺で修行をして、重衡の後生の菩提を弔い、自身も往生の本懐をとげます。
(能のあらすじ)
狩野介宗茂は重衡の身を預かっています。頼朝から、よく労わるようにと言われており、酒を勧めようと準備をしていますと、雨の中、頼朝から遣わされた千手前が琵琶と琴をもって訪れます。重衡は昨日願い出た出家の望みが叶わないことを聞き、仏像を亡ぼしたことは、前業よりなお恥ずかしくと嘆きます。
狩野介は徒然を慰めようと、酒宴のしたくをし、千手が酌をし狩野介が詩を朗詠し、また千手が舞を舞ってもてなします。沈んでいた重衡も、興に乗じ琵琶を引き寄せ、琴に弾き合せます。次第に夜も開け、酒宴も終わりますと、勅命により重衡は都に引き立てられていきます。その有様は目もあてられません
記述にあたっては、杉本圭三郎全訳注・平家物語(覚一本)を参考にしています
(文:久田要)