前後シテ:悪七兵衛景清 前ツレ:景清の母 後ツレ:頼朝の従者 子方:源頼朝 ワキ:頼朝の臣 アイ:能力
作者:不詳 出典:「平家物語」大坂越 嗣信最期 弓流
あらすじ
(平家物語では)
平家は一の谷の戦に敗れ、屋島に退却します。元暦二年(1185年)、義経と範頼を大将とする平家追討軍が山陽道へ向かいます。義経が摂津国渡辺(大阪京橋付近)で200余艘の船団で出航しようとした時、有名な「逆櫓論争」が起こります。船を自在に動かすための逆櫓(方向舵)をつけるべしの梶原景時に対し、義経は「逃げ支度をして戦はできない、私の船は櫓一つで充分」と、二百艘のうち五艘だけで、急ぎ強風をおして出航します。おりからの強い追い風に乗って、三日はかかる船路をわずか6時間で阿波の地に到着します。こんな訳で、屋島の合戦というのは、義経軍80余騎の騎兵隊での奇襲です。平家方は大軍と見間違い、船に乗り退却してしまいます、本当に運に見放されています。翌日、近くの志度の浜での戦にも敗れ、平家は四国での足がかりを無くし、既に九州には源範頼が入っています。屋島の戦では、有名な“那須与一が扇の的を射る話”や“義経が敵の熊手に流した弱弓を見つけられる恥を潔しとせず、命をかけて弓を拾う弓流し”の話、また“悪七兵衛景清の三保谷十郎との錣(しころ)引きの話”などがあります。景清はその後の壇ノ浦の海戦にも生き延びます。
平家物語には、景清の名が何度か出てまいりますが、人物表現は前述錣引きで「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見給え。これこそ京わらんべのよぶなる上総の悪七兵衛景清よ」と名乗る場面だけです。
ただし、大仏供養の際に頼朝を付け狙う平家の侍、薩摩中務家資と申す者が捕らえられ、後に六条河原で斬られる話が、別個出ています。(この侍の名前は異本によって名が変わるので、おそらく頼朝を狙ったこの男を景清と構想して景清伝説の根幹ができるようになったのではなかろうか。また、おそらく大仏供養・景清の二曲が成立した時期には、景清を主人公とした「語り」が存在したのだろう(国士舘大学名誉教授近世文学専門 西尾邦夫))との説があります。
(前場)物忘れをするという草があると聞いているが、自分には忘れることのできない恨みがあると、平家の侍悪七兵衛景清は南都大仏再建供養に合わせ、奈良若草辺りに住む母を訪ねます。母は景清かと喜びますが、世を忍ぶ身、人々に紛れてやって来ました。人の噂には景清は頼朝を狙っているというが本当ですかと母が問うと、西海に滅んだ平家一門の弔いと思い狙っていますと答えます。一夜が明け、母と涙と共に別れます。
(後場)
東大寺の能力が大仏殿の由来を述べています。景清は清めの役人姿で御前(頼朝)近くへ行きますが、頼朝の臣に見咎められ、名のれと責められ、一旦人ごみに紛れますが、景清と気付かれてしまいます。家臣は警護を強めます。こそこそと逃げていては弓矢の恥辱と、景清は名のりをあげて斬り込み、若武者一名を斬った後、これまでと、茂みに飛び込み、又の時節をと逃げ去ります。景清はいつも逃げ上手です。
記述にあたっては、杉本圭三郎全訳注・平家物語(覚一本)を参考にしています
(文:久田要)