シテ:平経正 ワキ:僧都行慶
作者:世阿弥(一説) 出典:「平家物語」竹生島詣・経正都落・青山之沙汰
あらすじ
(平家物語では)
寿永2年(1183年)木曽義仲の挙兵に対し、平家方は平維盛・通盛を総大将とする、10万騎の大軍を北陸道へ差し向けます。その途次、副大将平経正は、竹生島に詣でた際に琵琶をひき、上玄(しょうげん)、石上(せきしょう)の秘曲を奏でられると、明神が感にたえかねて、経正の袖の上に白龍となって御姿を現わしなさったという話が出ています。経正は琵琶の名人です。
平経正は、清盛の甥。青葉の笛で有名な敦盛の兄にあたります。経正は都落ちの際、幼少の頃に仕えていた仁和寺の御室の御所を訪ねます。第6代守覚法親王に会い、以前から預かっていた琵琶の名器「青山」をお返しします。この青山とは、その昔貞敏(ていびん)なる者が唐に渡ったとき、大唐の琵琶の博士廉承武(れんしょうぶ)から三曲の伝授を受けて帰国しました。その際、玄象(げんじょう)、師子丸(ししまる)、青山(せいざん)の三面の琵琶をもち海を渡ったのですが、波風が荒く立ったので、竜神に供えるため、師子丸を海底に沈め、二面を持ち帰りました。さる十五夜に村上天皇が玄象をひいていると、廉承武の霊が現れ、昔貞敏に秘曲を伝えた際、一曲伝え残したため魔道に沈んでいるという。その曲を天皇に伝え成仏したいと、青山をとり秘曲を伝え授けました。先に伝えた二曲が上玄、石上です。その後は天皇も臣下の者も恐れられて、この琵琶をひくこともなくなりました。御室へ下されたのを、経正に与えられたとのことです。夏山の峰の緑の木の間から有明の月の出るところが描いてあるので青山と名づけられたのです。
(能のあらすじ)
仁和寺の御室では、僧都行慶が但馬守経正の追善供養のために、経正が、西海の合戦の前に訪れ預けていった、青山なる琵琶を仏前に供え、管弦講にて弔いをしています。夜も更けてきた時、おぼろげに人影が現れてきました。自分は経正の霊で、弔いのありがたさに現れてきたと述べます。不思議なことに経正の幽霊は、姿が見えたり隠れたりするのですが、声はなんとか聞こえます。また、手向けられた琵琶を懐かしみ、弾いてみたり、管弦の話をしたりしています。さらに興じて夜遊の舞いを楽しんでいます。しかしそれも束の間、修羅道に堕ちた己が姿が現れると、恥ずかしく、燈火(ともしび)を消してくださいと願います。しかし、帝釈修羅の戦いは火を散らし、猛火は雨となって襲ってきますので剣で払うと、わが身を傷つける。あさましい姿を恥じて、燈火を吹き消して暗闇にきえていきます。
(おわりに)
経正は生誕が不明のため年齢がはっきりしません。一の谷の戦で、河越重房の手勢に討ち取られたとされています。
記述にあたっては、杉本圭三郎全訳注・平家物語(覚一本)を参考にしています
(文:久田要)