能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

船弁慶(ふなべんけい)解説

前シテ:静     後シテ:知盛の怨霊     子方:判官源義経     ワキ:武蔵坊弁慶     ワキツレ:判官の従者(三人)     アイ:船頭
作者:観世小次郎信光     出典:「平家物語」判官都落

あらすじ

(平家物語では)
平家一門は都を落ちた後、西国に再集結します。一方平家を追い落とした木曽義仲の絶頂も約半年。頼朝軍に瀬田・宇治の戦に破れ、大津の粟津の松原で討たれてしまいます。その後、源平合戦は「一の谷」「屋島」と続きますが、どちらも義経の奇襲により源氏方の勝利となります。そして最後の決戦地「壇ノ浦」での海戦となります。物語では平家方1000余艘、源氏方3000余艘と書かれています。敗れた平家の主だった人々は、討ち死に、入水、生け捕りと、運命は分かれますが、ここに平家一門は全滅しました。
三連戦に於ける最大の殊勲者が九郎判官義経であることは、京の人々は皆疑うことはありませんでした。しかし、鎌倉の事情は違いました。頼朝自身の考えや、源氏の嫡男としての頼朝を取り巻く多くの武将の思惑は、義経と相容れませんでした。平家の総帥宗盛親子を連れ鎌倉へと凱旋する義経に対し、義経主従のみ鎌倉に入れず、腰越に追い返されます。書状(腰越状)でもってひたすら嘆願するのですが、頼朝は受け入れず、面接を終えた宗盛親子(途中で処刑)を伴って京へ帰るよう命じます。頼朝と義経の間の溝は深まり修復の兆しもありません。文治元年(1185年)11月北条四郎時政を大将とする鎌倉からの討手が都に上るとの情報で、義経は九州へ行こうと考えます。後白河院に嘆願し、九州勢は義経を大将とせよ、という御下文をいただき、頼みとする武将、信太三郎義憲、十郎蔵人行家、緒方三郎維義らと、尼崎大物の浦から出帆しますが、急に西風が吹き始め、住吉の浦に打ち上げられてしまいます。義経は運に見放されてしまいました。人々は平家の怨霊の祟りと噂します。
(前場)
義経一行が尼崎の大物の浦に着きました。弁慶と義経が相談し、静(しずか)を都へ返そうとしますが、静は本人に確認しようと、義経のもとへ行きますが、やっぱり都にて時節を待ちなさい、と言われてしまいます。門出の酒宴が始まり、静は舞を舞い、泣く泣く別れ、一行は旅立とうと船を用意します。天候の悪化もあり逗留をという義経の意見を、弁慶は静への未練と考え、翻意を促し船出します。
(後場)
海上に出ると風が変わって嵐となります。海上には西海に亡んだ平家一門の亡霊が浮かび上がります。なかでも知盛の亡霊が、義経をも沈めようと襲い掛かります。義経も刀を抜き戦いますが、打物では勝ち目がないと、弁慶が数珠を押し揉んで祈ると、悪霊は次第に遠ざかって、白波に消えていきました。
(おわりに)
曽我兄弟の仇討ちにからむ謀反の疑いで、もう一人の兄弟であり平家追討の功労者である範頼も、兄頼朝により処刑されてしまいます。義経もこの後、吉野~奈良~京~北国路~奥州へと流浪することになります。頼朝にとっては、兄弟の命よりも、政治が優先しました。それにしても恐い人ですね。

記述にあたっては、杉本圭三郎全訳注・平家物語(覚一本)を参考にしています
(文:久田要)