能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

屋島(やしま)

前シテ:漁翁     後シテ:源義経     ツレ:漁夫     ワキ:旅僧     ワキツレ:従僧     アイ:屋島の浦人
作者:世阿弥     出典:「平家物語」大坂越 嗣信最期 弓流

あらすじ

(平家物語では)
寿永三年(1184年)2月、一の谷の戦は、大手、搦手の激戦でも容易に決しなかった戦況が、義経による「鵯越(ひよどりごえ)の坂落し」の奇襲によって、平家方の総崩れとなります。この戦で、かつて栄華を極めた平家一門の武将の多くが討ち取られ、屋島に退却します。9月には、範頼を大将とする源氏軍3万余騎が、平家追討に西国に向かい備前・藤戸に陣を敷きます。一方平家方は小松新三位中将資盛を大将とする500余艘の船が備前児島に集結します。両軍の間は5町(約550m)の海で隔てられています。船上の平家の挑発に、源氏は成すすべもありません。そんな時、源氏方の佐々木三郎盛綱は浦の漁師を手名づけて、馬で渡れる浅瀬を聞き出した功で、戦は源氏方の勝利となります。
年が明け元暦二年(当時天皇が二人いたため和暦がややこしい)(1185年)、義経と範頼を大将とする平家追討軍が山陽道へ向かいます。義経が摂津国渡辺(大阪京橋付近)で200余艘の船団で出航しようとした時、有名な「逆櫓論争」が起こります。船を自在に動かすための逆櫓(方向舵)をつけるべしの梶原景時に対し、義経は「逃げ支度をして戦はできない、私の船は櫓一つで充分」と、二百艘のうち五艘だけで、急ぎ強風をおして出航します。おりからの強い追い風に乗って、三日はかかる船路をわずか6時間で阿波の地に到着します。こんな訳ですから、屋島の合戦というのは、義経軍80余騎の騎兵隊での奇襲です。平家方は大軍と見間違い、船に乗り退却してしまいます、本当に運に見放されています。後藤兵衛実基は戦いに参加せず、まず内裏に乱入し火を放って焼き払ってしまいます。この戦では、有名な“那須与一が扇の的を射る話”や“義経が敵の熊手に弓を流し、弱弓を見つけられる恥を潔しとせず、命をかけて弓を拾う弓流し”の話、また“悪七兵衛景清の三保谷十郎との錣(しころ)引きの話”などがあります。
(前場)
都の僧が西国行脚を志し屋島の浦にやって来、塩屋に一夜の宿をと立ち寄ります。漁翁が帰ってきたので宿を請いますと、漁翁は余りに見苦しいと一旦は断りますが、僧が都から来たと聞き了解します。そして都を懐かしがり涙に咽びます。僧が古の源平合戦の様子を尋ねますと、漁翁は合戦の模様を話します。平家方悪七兵衛景清の錣引きの話し、源氏方佐藤三郎兵衛継信が義経の身代わりに討たれた話などをします。余りに詳しい話に、僧が名を問うと、よし常の……と、ほのめかして消えます。
塩屋の実の主が来て、この話しを聞いて、しばらくの逗留を勧めます。
(後場)
僧の夢に義経が現れ、船を組み、駒を並べての戦いの最中、判官義経が取り落とした弓が沖へ流れゆくのを、駒を泳がせて取り返した後、惜しむは名のため惜しまぬは一命と話します。そうこうするうち、突然修羅道の鬨の声に激しい戦い振りを見せますが、夜明けとともに、敵と見えていたのは群れ居るかもめ、鬨の声と聞こえていたのは高松の浦風でした。

記述にあたっては、杉本圭三郎全訳注・平家物語(覚一本)を参考にしています
(文:久田要)