前シテ:漁翁 後シテ:阿漕 ワキ:男 アイ:浦人
作者:世阿弥(一説) 出典:「源平盛衰記」巻8讃岐院事、 古今和歌六帖
あらすじ
(源平盛衰記では)
保元元年(1156年)、保元の乱に敗北した崇徳上皇は、四国讃岐に流されます。少し遡りますが、最初に院政を始めたのはワンマン白河上皇。息子の堀川天皇が若死にすると、孫の鳥羽天皇をたて、ますます院政を強めます。そして独裁者の常か道徳的にも問題を発生させ、孫の嫁と密通し、結果生まれたのが後の崇徳天皇です。崇徳は父の鳥羽天皇からは「叔父子(おじご)」と呼ばれ、嫌われていたといいます。しかし反対に、崇徳からすれば、自分の責任ではなく、このことを不合理に思っていました。保元の乱は天皇家の継承を廻る内輪もめから始まります。
約10年の後、鳥羽院の北面の武士佐藤義清は出家入道し、西行法師と名を改めます。この法師は高野山に庵を設けますが、気の向くままに山を下り、終生旅人として歌を修行しました。このような旅の詩人としては、他に宗祇、芭蕉などが有名です。西行の出家の動機は色々と取り沙汰されていますが、よく分っていません。が、源平盛衰記では、西行法師が四国へまいり、崇徳院の廟所を参り7日間逗留して読経念仏します。その場面で、西行発心の起こりは恋故で、非常に高貴な上臈女房と関係をもってしまった折、主上から「あこぎの浦ぞ」とお仰せがあり、一夜の契りではなく、重ねた関係であることを見抜かれてしまった故、出家したのだとあります。ちなみに、「あこぎの浦」とは、「伊勢の海 あこぎが浦に 引く網も 度かさなれば 人もこそしれ」の歌のことで、かの阿漕の浦には、神の誓いにて、年に一度の外は網を引かないという決まりがあったのですが、密漁も度重なれば人に知られることになると、忍ぶ恋を密漁に譬えて詠んだものです。
(前場)
日向の者が伊勢参りの途中、伊勢の阿漕浦に着き、名所を尋ねようと待っています。すると、年老いた漁師が現れ、なにやら殺生の仕事を嘆いています。男は土地の名前を聞き、古歌の「伊勢の海 阿漕が浦に 引く網も 度重なれば 顕れにけり」の浦だと関心していると、漁師は六帖の歌にある「逢う事も 阿漕が浦に 引く網も 度重ならば 顕れやせん」と別の古歌を詠じます。男が歌の謂れを問いますと、この浦は伊勢神宮に奉納する魚をとるための場所で、禁漁とされていると話します。しかし阿漕という海士が夜な夜な密漁をし、度重なった結果人に知られるところとなり、捕らえられ海に沈められてしまい、今も冥土で責め苦に苦しんでいると話します。そして実は、阿漕とは自分のことと言い残し闇の海に消えていきます。
(後場)
男は浦人からも阿漕の話しを聞き、霊を弔っていると、阿漕の霊が現れます。そして、阿漕は密漁の様子を見せ、さらに執心から網を置こうとすると、波が猛火となって襲います。地獄で耐え難い責め苦を受けているので、助けてくれと、救いを求めながら波の底に消えていきます。
水原一 校注「新定源平盛衰記」新人物往来社刊 及び角川文庫「日本史探訪5」を参考にしています
(文:久田要)