シテ:武蔵坊弁慶 ツレ:義経の郎党(9人) 子方:源義経 ワキ:富樫某 アイ:強力、従者
作者:観世小次郎信光(一説) 出典:「義経記」巻7義経北国落ち、他
あらすじ
(平家物語・義経記では)
平家滅亡の最大の殊勲者が九郎判官義経であることは、京の人々は皆疑うことはありませんでした。しかし、鎌倉の事情は違いました。頼朝を始め、取り巻く多くの武将の思惑は、義経と相容れませんでした。鎌倉へと凱旋する義経主従は鎌倉に入れず、腰越に追い返されます。書状(腰越状)でもってひたすら嘆願するのですが、頼朝は受け入れません。文治元年(1185年)11月、北条四郎時政を大将とする鎌倉からの討手が都に上るとの情報で、義経は九州に向かうべく尼崎大物の浦から出帆しますが、急な西風で住吉の浦に打ち上げられてしまいます。義経は運に見放されてしまいました。人々は平家の怨霊の祟りと噂します。義経は吉野山を目指しますが、吉野の僧徒にも追われ、奈良を経て、再度京の都に潜伏します。
文治二年(1186年)2月、山伏姿の義経主従16名に北の方と十郎権頭兼房、総勢18人で奥州平泉を目指します。琵琶湖の海津に上陸。陸路敦賀の気比を過ぎ、安宅の渡しを渡り、義経主従は宮腰(金沢市)へ、弁慶は一人富樫の館へ行き、東大寺の勧進を成功させます。その後、如意の渡し(富山県福岡町)で一悶着起こります。渡守のは船の舳先にいる義経を、怪しいと云います。そこで弁慶は義経の腕をつかんで肩にかけ船を出、砂の上に投げ倒し、扇でめった打ちにし、渡守の嫌疑を晴らし、その場を逃れます。さらに直江津では、浦の代官に疑われ、笈(おい)の中を見せろと云われ、儘よと、手に当たった笈を振ると、ガラガラの音。鎧を聖観音のご神体と言いくるめ、その場を何とか逃れます。さらに、念珠ガ関(ねずがせき…山形県鶴岡市)は警固が厳しく通れそうにありません。義経に身分の低い身なりをさせ、笈をたっぷり負わせ、「歩け、法師、しっかり歩け」と打ちたてながら関を通ってしまいます。こうして藤原秀衡(ひでひら)の待つ、平泉(岩手県)へとたどり着きます。平泉は義経が少年時代を過ごした故郷です。
(能のあらすじ)
加賀の国安宅の湊には、山伏に偽装した義経を捕らえようと、新しい関ができています。旅人の話からそのことを聞いた義経一行は、義経の篠懸(すずかけ…山伏の衣装)を改め、笈を負った強力の姿にして、菅笠で顔を隠して関を通ろうとしますが、富樫は山伏は全員斬ると言います。仕方が無いので、一行は最期の勤行を始めますと、富樫は弁慶の気迫に押され、東大寺の勧進ならば勧進帳を読めと命じます。弁慶は巻物を偽って読み上げます。関の人は、これは本物の山伏だと通しかけるのですが、強力(義経)が見咎められ留められます。弁慶は強力を金剛杖で打ち、いやしい強力に構うなと迫り、再び許され関を通り抜けます。関から少し離れた場所で休んでいると、富樫が非礼を詫びるため酒をもって訪れます。弁慶は「鳴るは瀧の水……」と舞い謡って、暇をし、早々に下っていきます。
(おわりに)
義経記は義経の逃避行を中心とした冒険物語の古典です。その様々な話しを凝縮したものが、能では本曲「安宅」で、歌舞伎では「勧進帳」となっています。
高木卓訳「義経記」、及び島津久基校訂「義経記」を参考にしています
(文:久田要)