能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

熊坂(くまさか) 解説

前シテ:僧     後シテ:熊坂長範     ワキ:旅の僧     アイ:里人
作者:不詳     典:「義経記」鏡の宿の強盗  「平治物語」

あらすじ

(平治物語・義経記では)
保元元年(1156年)の保元の乱では後白河天皇方として戦い、勝利を収めた平清盛と源義朝も、続く平治元年(1159年)の平治の乱においては、複雑な政争を勝ち抜いたのは清盛でした。敗れた源義朝(よしとも)と鎌田政清の主従は敗走し東国へ向かう途中、知多半島野間において、政清の舅長田忠致(おさだただむね)に暗殺されます。義朝は子沢山でした。東海道の各地に9人の男子がいました。長男義平は京六条河原で斬られ、次男朝長は美濃青墓宿で討たれますが、三男頼朝(母:熱田大宮司の娘)や九男牛若(母:常盤御前)は処刑の寸前、平家方の池禅尼(いけのぜんに)の助命で命永らえます。頼朝は伊豆に配流。牛若は山科で育てられた後、7歳になると鞍馬寺に入り、学問一筋の生活を送ります。ある時、鎌田政清の子鎌田三郎正近(正門坊・四条の上人)が牛若に会い、源氏の代々を詳しく話します。このことがあった後は、牛若は学問を捨て、鞍馬の奥「僧正ガ谷」の貴船明神で太刀の稽古をします。この頃より名を変え、遮那王と呼ばれます。16歳になった年、京都三条の砂金買いの商人・吉次信高なる者が鞍馬の多聞天に参って念誦していた折、遮那王を見、奥州藤原秀衡(ひでひら)が主君として仰ぎたい、と言っていた牛若に違いないと考え、奥州下りを持ちかけます。承安四年(1174年)2月2日明け方、鞍馬寺を出、粟田口で吉次と落ち合い、追手が来る前にと馬を全速力で走らせます。その日は、近江国「鏡の宿場」に泊まります。この宿場の遊女宿のかしらの女(長者)は吉次の年来の知人なので、遊女を沢山呼んでのもてなしでした。その夜、出羽国の名高い山賊・由利太郎と越後国の藤沢入道が共謀して、吉次の財宝(商品)を奪うべく100人程で長者の家に押し入りますが、反対に遮那王が由利太郎・藤沢入道を討ち取ります。
(前場)
東国修行を志す僧が、日暮れて美濃赤坂の青野が原に着きますと、一人の僧に呼び止められ、今日はさる者の命日だから弔ってほしいと言われます。さる者の名を問う僧を、自分の庵室に案内しますが、そこには仏像もなく、あるのは武具ばかりです。この辺りは山賊・夜盗が多く被害に会う者が多いので、愚僧が助けるためのものと釈明しつつ、夜明けと共に眠りに入ると、僧も庵室も消えて草むらになっていました。
(後場)
旅の僧が弔いをしていますと、熊坂長範が現れます。そして、麿針太郎兄弟、壬生の小猿、麻生の松若、三国の九郎、加賀の熊坂長範など70人で、赤坂の宿にて黄金商人吉次信高の荷を襲った経緯を話します。一緒にいた年のころ十六七の小男を牛若とも知らないで戦い、散々に討たれます。「盗みも命あってのこと」と引こうとしますが、思い直して戦い、この松の根方で死んだと語り、弔いを頼み消え失せました。
(おわりに)
物語では、場所も、人の名前も違いますが、熊坂長範のモデルといわれています。これだけの話をモチーフにし、脚色し立派な能曲として仕上げた作者(不詳)の力量こそすばらしいと思います。

高木卓訳「義経記」、及び島津久基校訂「義経記」、並びに岸谷誠一校訂「平治物語」を参考にしています
(文:久田要)