能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

七騎落(しちきおち) 解説

シテ:土肥実平      ツレ:源頼朝      ツレ:新開次郎・土屋三郎・田代信綱      ツレ:土佐坊      ツレ:岡崎義実
子方:土肥遠平      ワキ:和田義盛      アイ:船頭
作者:不詳      出典:「源平盛衰記」巻21 巻22

あらすじ

(源平盛衰記では)
平家一門の繁栄が頂点に達する頃、武士の代表であったはずの平家は徐々に公家化していき、源氏を中心とした武士の不満が募ります。平家打倒の最初は、「鹿ケ谷の密議」での俊寛・藤原成親のクーデター計画、これは裏切りで失敗します。第二弾は以仁王(もちひとおう)の令旨による源三位頼政による挙兵ですが、これも平家の迅速な対応により失敗となります。しかしその後、同じく以仁王の令旨の誘いで、木曽義仲や源頼朝の挙兵へと続きます。本曲は源頼朝の最初の戦である「石橋山の合戦」を題材にしています。
治承4年(1180年)源頼朝は石橋山に挙兵します。その頃の関東平野は多くの豪族が割拠しており、源氏の棟梁といえども流人の身分の頼朝には、子飼いの家来はほとんどいません。自分に味方する豪族を集めての挙兵です。頼朝軍300騎、一方大庭景親等迎撃軍3000騎、頼みとする三浦勢は暴風と洪水のため足止めをくって参戦できません。多勢に無勢で頼朝軍は大敗し、頼朝主従8騎は辛くも土肥の椙山に逃げ込み、伏木の洞に隠れます。大庭軍の探索は厳しく、一度は再集結した頼朝軍もとても太刀打ちできないと、再起を期して別れ、頼朝は土肥実平等を頼りにして、真鶴から船で安房国を目指して落ち延びます。一方三浦勢の和田義盛等は衣笠城に籠もり、畠山・河越・金子の軍勢3000騎と戦い、夜になって船で安房国へと落ちていきます。安房国の洲崎では、頼朝の船と三浦勢の船が出会いますが、頼朝は三浦勢が戦に参戦できなかった事情を知りません。和田義盛が「佐殿(頼朝)はいかに居ますか」と問いかけますが、頼朝と同行の岡崎義実はとぼけて「佐殿は三浦に居るかと思っていた」と返事します。和田義盛が「甲斐なきこと、城で討ち死にすればよかった」と述懐すると、それを聞いていた頼朝は名乗りでます。
(能のあらすじ)
石橋山の戦に敗れた頼朝主従は、舟で安房・上総を目指しますが、頼朝は8騎であることに、祖父や父の不吉な先例を感じ、一人下ろすように土肥実平に命じます。実平は苦心の末、岡崎義実に下船を乞いますが断られます。続いて息子の遠平にも断られ、これを斬ろうと刀に手をかけますが、諌められ、自分が間違っていたと、自ら下船の決心をします。すると、遠平が下船を申し出、名残惜しくも遠平を残し船出します。翌日、沖合いで和田義盛の船と出会います。土肥実平と和田義盛は声掛け合うも、用心しています。実平が、心を試すべく頼朝は居ないと偽ると、義盛は甲斐なきことと切腹しようとします。実平はこれを止め、兵衛佐殿は船に居るので、双方陸に上がろうと提案し、頼朝に対面させます。そして義盛も引出物と言って遠平を引き合わせます。一同は喜びの酒宴を催し、実平は心嬉しく男舞を舞います。
(おわりに)
ちなみに8騎とは兵衛佐殿(頼朝)、土肥次郎実平、北条四郎時政、岡崎四郎義実、土肥弥太郎遠平、懐島平権守景能、藤九郎盛長、田代冠者信綱 の8人です。

水原一校注「新定源平盛衰記」新人物往来社刊を参考にしています
(文:久田要)