能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

禅師曽我(ぜんじそが)解説

シテ(後):国上禅師      前ツレ:母・ 団三郎・ 鬼王  後ツレ:伊東祐宗・疋田小三郎・立衆(3人)
作者:不詳      出典:「曽我物語」巻10 禅師法師自害事

あらすじ

(曽我物語では)
まず、曽我兄弟の仇討ちの概要をご説明します。鎌倉幕府が出来て間もない頃の話です。伊豆国の土地の支配権争いで、工藤祐経(くどうすけつね)と叔父の伊東祐親(すけちか)が争っていました。そして、工藤祐経が放った刺客の矢に当たり死んだのは、伊東祐親の嫡男・河津祐泰(かわづすけやす)でした。河津祐泰には、妻満江御前との間に何人かの男の子があり、兄を一萬丸、弟を箱王丸といいます。その後、満江御前が相模国の曽我祐信と再婚したことから、兄弟は、兄を曽我十郎祐成(すけなり)、弟を曽我五郎時致(ときむね)と呼ぶようになります。工藤祐経は頼朝の御家人としての実力者です。曽我兄弟は工藤祐経を親の敵と付け狙い、源頼朝主催・富士裾野での盛大な巻狩りでチャンスがめぐってき、宿願の仇討ちを果たします。その際、兄十郎は討ち死に、弟五郎は捕らえられ、頼朝の御前での取り調べの後、処刑されます。富士の狩場から、供人の道三郎・鬼王が形見の品をもって、兄弟の母に報告にまいります。弟五郎は永らく母の勘当の身でした。討ち入りの直前に勘当は解かれたのですが、永い間親子の縁を切って、一緒に暮らさなかったことを母は悔やみます。そして、七日毎の法要を四十九日まで追善します。
兄弟には、他に越後の国上という山寺に、禅師法師という弟がいました。普通では、そこまで詮議は行なわれないのですが、曽我兄弟の仇討ちが有名になったばかりに、頼朝の命で、養父源義信の使いが寺に押し寄せます。禅師法師はこれまでと、自害をはかりますが、途中で取り押さえられ、頼朝の許に送られます。頼朝の詮議にも、腹の据わった返答を、憚ることなく言いきって、頼朝の賞賛を受けますが、「自害の途中の身、早く首を討て」としきりに申し、18歳にして果てます。
(前場)
団三郎・鬼王は、曽我兄弟が井出の館で敵を討ち、その後討ち死にしたので、形見の品をもって兄弟の母を訪ねます。母に敵討ちの仔細を報告しますと、母は悔やみ悲しみます。そして、国上の寺にいる末息子に、危害が及ばないか心配になり、団三郎・鬼王に手紙を託し、国上へ使いさせます。
(後場)
寺では禅師が百座の護摩を焚いています。そこに叔父で養父の伊東祐宗が頼朝の命で、捕らえに現れます。禅師は尋常に戦い、討ち死にして養父の手柄にしようと、鎧、長刀で身を固め討って出ます。疋田小三郎を切り捨てますが、若武者に切りたてられ、これまでと護摩壇に上がり自害しようとしますが、生け捕られ、鎌倉へ送致されます。
(おわりに)
「曽我兄弟の仇討ち」は瞽女(ごぜ)の語りで伝えられ、その後、読み物語として広められたそうです。事件の真相には意見が分かれますが、単純な仇討ち事件ではなく、仇討ちに事寄せた、鎌倉幕府の屋台骨を揺るがすような、政治上の思惑の絡んだ事件だった、と考える研究者が多い様です。

市古貞次・大島建彦校注 日本古典文学大系「曽我物語」岩波書店刊 他を参考にしています
(文:久田要)