前・後シテ:佐藤忠信 前ツレ:源義経 後ツレ:衆徒(3~5人) トモ:義経の従者 ワキ:伊勢義盛
アイ:早打
作者:世阿弥 出典:「義経記」巻5忠信が吉野にとどまる 他
あらすじ
(平家物語・義経記では)
平家滅亡の最大の殊勲者が九郎判官義経であることは、京の人々は皆疑うことはありませんでした。しかし、鎌倉の事情は違いました。頼朝を始め、取り巻く多くの武将の思惑は、義経と相容れませんでした。鎌倉へと凱旋する義経主従は鎌倉に入れず、腰越に追い返されます。書状(腰越状)でもってひたすら嘆願するのですが、頼朝は受け入れません。文治元年(1185年)11月、北条四郎時政を大将とする鎌倉からの討手が都に上るとの情報で、義経は九州に向かうべく尼崎大物の浦から出帆しますが、急な西風で住吉の浦に打ち上げられてしまいます。義経は運に見放されてしまいました。人々は平家の怨霊の祟りと噂します。義経主従17人は途中で静御前を京都へ帰し、雪の吉野に潜伏します。一方、吉野の僧徒(僧兵)らは義経を討ち取って鎌倉殿にお見せしようと、数百人で攻めてまいります。山を逃げますが、中々逃げ切れません。そのとき、佐藤四郎兵衛忠信が義経一行を逃がすため、自分は主従数騎で踏みとどまると申し出ます。佐藤継信・忠信兄弟は奥州平泉藤原秀衡の家来です。兄継信は屋島の戦で義経の身代わりに討ち死にしました。弟の忠信はここ吉野で討ち死にする覚悟です。義経が奥州へ帰った暁には、自分の母と三歳で別れた子供のことを頼みます。忠信と兵士6名での防ぎ矢、敵の矢種が尽きるまで射させた時には忠信一人が生き残りました。勝手に山科法眼の坊に入り、久方の食事をし酒を飲んで寝ていますが、僧徒らが押し寄せてきますと、切腹したように見せかけ、建物に火を放ち屋根から裏山へ逃れます。そしてその数日後京都に潜入します。京では以前から思い交わした女の元に数日過ごしますが、この女の裏切りで討手をうけます。再度討手を逃れた忠信は、死に場所を求め、六条堀川の旧義経邸に行き、自害し果てます。
(前場)
吉野の衆徒を頼り潜伏していた義経は、家来の伊勢三郎義盛から、衆徒の詮議が変わり、今夜夜討を仕掛けてくると聞きます。義経は夜には吉野を落ちるべしと、佐藤忠信に一人残り、防ぎ矢をした後、追いかけて来いと命じます。一行を見送る忠信に、義経は必ず命を全うして再度加わるよう言い残します。
(後場)
僧兵が現れ、判官(義経)を出せと迫ります。忠信は高櫓に走り上り、矢を射放つと、僧兵数人が一度に倒されてしまいます。忠信は刀を抜き、切腹の仕草をして櫓から後ろの谷に転げ落ちます。僧兵が首を取れと寄ってきますが、小太刀をもって茨の木々を潜り逃げます。逃がすまいと懸かってくる兵を斬り倒し、蝶鳥の如く走り、都めざして急ぎます。
(おわりに)
能「摂待」は佐藤継信・忠信兄弟の母と幼子が主役となる曲です。武将という者も辛いものです。
高木卓訳「義経記」、及び島津久基校訂「義経記」を参考にしています
(文:久田要)