能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

朝長(ともなが)解説

前シテ:青墓の長者      後シテ:大夫之進朝長      ツレ:侍女      トモ:従者(太刀持)      ワキ:旅の僧
ワキツレ:従僧(2~3人)      アイ:青墓長者の下人
作者:世阿弥(一説)      出典:「平治物語」義朝青墓に落著く事

あらすじ

(平治物語では)
保元元年(1156年)の保元の乱では後白河天皇方として戦い、勝利を収めた平清盛と源義朝も、続く平治元年(1159年)の平治の乱は、後白河院政派と二条天皇親政派、並びに信西入道、藤原信頼を中心に、武士を巻き込んだ複雑な政争です。結局この乱を勝ち抜いたのは平清盛でした。敗れた源義朝(よしとも)は、長男悪源太義平、次男大夫進朝長、三男兵衛佐頼朝と一緒に東国に敗走します。途中頼朝(13歳)は馬の上で眠ってしまい、皆とはぐれてしまいます。義朝・義平・朝長は東山道・青墓宿に着きます。この宿の長者大炊の娘延寿と義朝の間には夜叉御前という10歳の子供がいます。宿に入り「義平は山道をせめてのぼれ。朝長は信州へ下り、甲斐、信濃の源氏どもをもよほして上洛せよ。我は海道をせめのぼるべし」と命じます。長男義平は途中で捕らえられ、後日京都六条河原で処刑され、次男朝長も途中、龍下というところで手負い、宿へ戻ります。義朝は暫く宿に留まれと薦めますが、生け捕られるよりは親の手でと、介錯を頼み自害し果てます。この後義朝と鎌田政清の主従は東国へ向かう途中、知多半島野間において、政清の舅長田忠致(おさだただむね)に、浴室で暗殺されます。義朝は子沢山です。頼朝(母:熱田大宮司の娘)や九男牛若(母:常盤御前)は処刑の寸前、平家方の池禅尼(いけのぜんに)の助命で命永らえます。頼朝は伊豆に配流、その後鎌倉幕府を開きます。牛若は7歳になると鞍馬寺に入り、その後義経と名を改め、平家打倒の先鋒として活躍します。9人の男兄弟の生き様も多様でした。
(前場)
朝長所縁の嵯峨清涼寺の僧が、美濃青墓で自害した朝長を弔うべく旅立ちます。青墓に着き、朝長の墓を弔っていますと、長者(宿の女主人)が七日毎の参りにやってきます。僧は朝長の傳(めのと…貴人の子を守り育てる役目の男)だったと伝え、長者は、一夜泊まったその日に自害した朝長が嘆かわしく、お参りしていると伝えます。さらに、朝長が膝を弓で射られ、皆の足手まといとならぬ様、自害した最期の様子を語り、旅人と一緒に宿に帰ります。部屋で僧が観音懺法(かんのんせんぼう)を読誦しています。
(後場)
朝長の霊が現れ、弔いを感謝しつつ、保元・平治の乱で兄義平は斬られ、弟頼朝も捕らえられ、父義朝は家臣の長田に裏切られ討たれてしまった顛末を語ります。そして、自分は合戦で膝を射られ、一歩も歩けない足で、替馬に乗りここまで来たが、雑兵の手にかかるよりはと自害した様子を見せ、今も修羅道にあると、さらなる弔いを頼みます。
(おわりに)
青墓の宿の隣、美濃赤坂は揖斐川の川船の港(一部復元されています)でした。義朝と鎌田政清もここから乗船し、海伝いに知多半島野間に渡ったものと思われます。

高木卓訳「義経記」、及び島津久基校訂「義経記」、並びに岸谷誠一校訂「平治物語」を参考にしています
(文:久田要)