前・後シテ:武蔵坊弁慶 子方:牛若丸 トモ:弁慶の従者 アイ:都の者
作者:世阿弥(一説) 出典:「義経記」巻3・弁慶の太刀強盗、義経と弁慶の君臣の契り
あらすじ
(平治物語・義経記では)
保元の乱、続く平治の乱において、複雑な政争を勝ち抜いたのは清盛でした。敗れた源義朝(よしとも)と鎌田政清の主従は敗走し東国へ向かう途中、知多半島野間において、政清の舅長田忠致に暗殺されます。多くの義朝の子のうち、三男頼朝(母:熱田大宮司の娘)や九男牛若(母:常盤御前)は処刑の寸前、平家方の池禅尼(いけのぜんに)の助命で命永らえます。頼朝は伊豆に配流。牛若は7歳になると鞍馬寺に入り、学問一筋の生活を送ります。ある時、鎌田政清の子鎌田三郎正近(正門坊)が牛若に会い、源氏の代々を詳しく話します。このことがあった後は、牛若は学問を捨て、鞍馬の奥「僧正ガ谷」の貴船明神で太刀の稽古をします。この頃より名を変え、遮那王と呼ばれます。16歳になった年、奥州へ下り藤原秀衡と対面し、その帰り木曽義仲を訪れ、京へ戻ります。その頃の話です。
武蔵坊弁慶という人がいます。比叡山では乱暴者として扱われ、播磨の書写山の炎上には心ならずも片棒を担ぎます。弁慶は京で太刀を千振奪い取ろうと、夜毎太刀強盗を始めます。今日が丁度千本目という夜、五条の天神を詣り、近くの土塀のほとりで相手を物色していますと、笛を吹きながら義経が現れます。黄金作りの太刀を奪おうと斬り付けると、ひらりと九尺(2.7m)の土塀に飛び上がります。翌日は清水の観音で出会い、清水の舞台での立会いです。弁慶はさんざんに打たれ、降参して義経の家来になります。この後、弁慶は二心なく義経につき従い、義経最期となる奥州「衣川の戦」で討ち死にします。
(前場)
弁慶は宿願があり、五条の天神に丑の刻(うしのとき)詣りをし、今日が満願の日です。従者は、五条の橋には蝶鳥のように、若く素早い人斬りがいるので止めたほうが良いと諌めますが、聞いて逃げるのも無念と、討ち取ってやろうと夜更けを待ちます。一方牛若は、明日は寺へ上がる身、今宵は名残と五条の橋に立ち、月の夜の景色を眺めながら通りかかる人を待っています。
(後場)
弁慶は鎧をつけ大長刀(なぎなた)を担ぎ、橋板を踏み鳴らして現れます。牛若を見つけますが、女だと思い通り過ぎると、牛若が長刀の柄元を蹴上げ、斬り合いの始まりです。弁慶は長刀を取り直し、さんざんに斬りかかるのですが、牛若は素早い。ついに長刀を打ち落とされてしまいます。そして、互いに名のり合い、弁慶は降参して牛若の家来となります。
(おわりに)
有名な義経・弁慶出会いの舞台は、能の設定では五条の橋の上で、物語では土塀です。また、人を襲うのも、能では義経、物語では千本の刀を集める弁慶です。舞台演劇では場面の演出効果が最も大事。どちらが正しいとも言えません。映画における原作小説と脚本の関係に似ています。
高木卓訳「義経記」、及び島津久基校訂「義経記」、並びに岸谷誠一校訂「平治物語」を参考にしています
(文:久田要)