前シテ:尉 後シテ:融大臣 ワキ:旅僧 アイ:所の者
作者:世阿弥 出典:「伊勢物語」第81段
あらすじ
(伊勢物語では)
「伊勢物語」は「在五が物語」とも云われ、在原業平一代記といわれています。しかし第81段では、業平は直接には登場しません。替わりに登場するのは源融です。源融と業平は同じ時代に生きた間柄です、業平は平城天皇の孫、源融は嵯峨天皇の十二男です。共に臣籍降下し、それぞれ在原氏、源氏を名乗ります。当時も色々な政争があり、業平は失意の人生を歩みますが、源融は左大臣(現代で言えば総理大臣)として、賀茂川のほとり六条のあたりに大層大きな邸宅を風流に作って住んでいました。
10月の末ごろ、菊の花が美しく、紅葉も様々に織り成している一日。親王方を招いて一晩中酒宴をもよおし、管弦を楽しみ、この邸のすばらしさを称える歌を皆で詠み交わしました。その折、身分の賤しい見苦しい姿の老人が最後に歌を詠みました。「塩竃に いつか来にけむ 朝なぎに つりする舟は ここに寄らなむ」(塩竃にいつの間にきたのでしょう。朝風の凪いだ海に釣りする舟が来れば、もうなんら塩竃と異なるところはなくなります)と。この老人は以前、陸奥に行っていたことがあり、塩竃というところを、すばらしいと思っていたのでした。
源融も若い頃、陸奥出羽国按察使(あぜち)という官職についていました。実際に赴任していれば塩竃の景色をみたことでしょうが、任地に行くことを免ぜられた「遥任」でした。陸奥への思いが深かったのでしょう、邸宅の庭に塩竃の景色を模したと伝わっています。
(前場)
東国からの都見物の僧が六条河原の院を訪れます。そこに田子(担桶)を担った老人がやって来ます。聞けば、汐汲みだと答えるのですが、海でもないのに汐汲みとはどういう訳かと尋ねます。すると老人は、あなた此処を何処だと思ってるのですか、六条河原院というのは塩竃の浦ですよと、昔、融大臣が陸奥の千賀の塩竃の浦の景色を模した所と答えます。そして、融大臣は日毎に難波の浦から潮を汲ませ、此処で塩を焼いて風流を楽しんだのだが、その後は相続する者もなく、荒れてしまったと語ります。そしてあたりの山々の名所を数々教え、長話しをしてしまったと、汐を汲むかと思うと、姿が見えなくなります。
旅僧は所の者に融大臣の往時の塩焼きの様子を聞かされ、先程の老人の話をすると、それは融大臣の霊であるから、弔いをするよう勧められます。旅僧は、なおも奇特を見たいものと思い、旅寝をします。
(後場)
貴人姿の融大臣が現れ、名月をバックに舞を舞い、夜明けと共に月の都に去っていきます。
(おわりに)
融大臣は源氏物語の主人公・光源氏のモデルとも云われています。また、六条河原院と思しき邸も源氏物語に再々登場します。夕顔との密会の廃屋として、また光源氏絶頂期の六条院として、などです。京都宇治の源氏物語ミュージアムには六条院の模型が展示されています。想像を絶する規模の屋敷です。
石田穣二訳注「新版伊勢物語」角川文庫刊を参考にしています
(文:久田要)