能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

檜垣(ひがき)解説

前シテ:老女     後シテ:檜垣女     ワキ:山僧     アイ:岩戸山麓の者
作者:世阿弥     出典:「大和物語」第126段  後撰集1219

あらすじ

(大和物語では)
本曲は天慶2年(939年)の伊予国日振島における藤原純友の乱を背景にしています。同時期に東国では平将門の乱があり、朝廷は小野好古を山陽道追捕使として派遣し、純友の懐柔をはかり、兵力を東国に集中させます。将門が滅亡すると、天慶4年2月朝廷軍は日振島を攻め破ると、純友軍は大宰府を占拠します。5月小野好古率いる官軍が九州に到着、陸路と海路から攻撃をしかけ、奮戦するも純友は捕らえられ獄中で没します。 筑紫国の檜垣の御(ヒノキ板で編んだ垣根のある家に住んでいた女性)という人は、経験豊富で心行き届き、魅力もあり、風流な生活をしていた人でした。しかし純友の乱で家も焼かれてしまい、家財も取られてしまい、みじめな有様になっていました。そんなこととも知らず、太宰大弐の小野好古が尋ね行きますと、水汲みの白髪の老婆が前を通っていきます。聞けば、その人こそ檜垣の御(君よりやや出自が劣る)とのこと。使いの者を呼びにやると「むば玉の 我黒髪は 白川の みづはくむまで おいぞしにける」と歌を返します。しみじみと気の毒になって、自分が着ていた衵(あこめ=下襲と単の間に着る衣服)を脱いで与えたということです。
(前場)
肥後国の岩戸山に三年間籠もっている僧のもと、毎日閼伽の水(あか=仏前に供える水)を供える老女が訪れます。僧は、今日こそ名を尋ねようと待っています。名を問うと、後撰集の歌「年ふれば 我が黒髪も
白川の みづはぐむまで 老いにけるかな」と詠じ、これは自分の歌で、昔大宰府に檜垣を設えた庵に住んでいた白拍子で、後には衰えて白川の辺に住んでいましたと答えます。そして、庵を通りかかった藤原興範が水を乞いた際に詠んだ歌だと云い、「みずはぐむ…」とは、「みずはぐむ=老いて屈める姿を云う」と掛詞になっていると説明し、白川の辺で弔うように頼み、夕まぐれに消えていきます。
僧は老女が檜垣女の霊と知り、白川のほとりに出かけ弔います。
(後場)
川霧深く立ち籠もる中、庵の灯が見え、人の声が聞こえてきます。僧の催促に、今も水を汲む檜垣女の霊が現れ、昔の舞女の誉れが世に勝っていた罪で今も地獄の業苦に苦しんでいると話します。また、昔を偲び、藤原興範に所望されて舞った時代を思い出しつつ、舞を舞います。そして、僧に回向を頼みます。
(おわりに)
大和物語で小野好古とされているところが、後撰集では藤原興範になっています。両者には約3~40年の隔たりがありますが、同じ太宰大弐であったことから混同されたものと考えられています。「後撰集」での素朴な地方官の巡行説話が「大和物語」では純友の動乱を背景に設定し、檜垣の嫗も才知経験に富む風流女性に仕立てられ、物語化されています。

雨海博洋・岡山美樹全訳注「大和物語(上)(下)」講談社学術文庫刊を参考にしています
(文:久田要)