能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

歌占(うたうら)解説

シテ:渡会何某     ツレ:男     子方:幸菊丸
作者:観世元雅(一説)     出典:「太平記」巻20 結城入道病死(堕地獄)事  遁世述懐抄

あらすじ

(太平記では)
元弘三年(1333年)鎌倉幕府が滅亡します。しかし、後醍醐帝の下での論功行賞は不正が多く、また大内裏造営などの方針決定は世の不興を買い、各地で挙兵が相次ぎ乱世が続きます。そのような状況の中、功労者の新田義貞と足利尊氏の関係が悪化、後醍醐帝は公卿会議を経て、尊氏討伐を決定し、新田義貞に朝敵追討の宣旨を発します。しかし、幾多の勝敗を制して、最終的な勝者となったのは足利尊氏でした。1336年に後醍醐帝は吉野に遷り、南北朝時代が始まります。その後、新田義貞や北畠顕家が討たれ、後醍醐帝は結城入道道忠の進言を容れ、他日を期して、八宮(後に、南朝・後村上天皇)を奥州へ下すため、伊勢の鳥羽から船出させますが、天竜灘で遭難し、八宮の船だけが無事に伊勢に戻ってきます。また、伊勢の安濃津に漂着した結城入道は、病を患い、臨終に際し悪相を現じて他界します。この入道は平生の行いが悪く、多くの人を殺めているが故に、かような悪相を現じたとのことです。入道のゆかりの山伏は、律僧姿の地蔵菩薩の導きで、入道が無間地獄に堕ちて苦しんでいる様を見て、入道の子息にこれを伝え、一日経を書いて供養するように勧めます。
本曲は、前半は歌占の実際、後半は当時流行の「地獄の曲舞」が織り込まれているということです。
(能のあらすじ)
加賀国の白山の麓に住んでいる里人が、歌占をする男巫子(みこ)の占がよく当たるという評判を聞き、親と生き別れの幸菊丸という子供を連れて訪ねます。男巫子を見ると、若い人なのですが、髪の毛が真っ白です。聞けば、自分は伊勢二見浦の神職で、諸国一見の旅の途中に急死したのだが、三日後に蘇生した、その時地獄を見てきたので、白髪になったのだと話します。里人が弓に吊るされた短冊を引き、父の病を占ってもらいますと、「北は黄に 南は青く 東白 西紅(くれない)の 染色の山」とあります。巫子は、親の病気は治り、長生きすると判じます。次に、子供が短冊を引き、父の行方を占いますと、「鶯の 卵(かいこ)の中の 郭公(ほととぎす) 己(しゃ)が父に似て 己が父に似ず」とあります。巫子は、これは既に出会っていることを示す歌だと占い、不思議に思い子供に問いただすと、自分の子であると判明します。親子は再会を喜び、帰国することにしますが、里人は巫子に「地獄の曲舞」を所望します。巫子は、この曲を謡うと神がかりしてしまうと一旦躊躇しますが、名残にと思い舞うことにします。巫子は、地獄の恐ろしい有様を語り、舞いますと、神がかりとなり狂乱しますが、やがて正気に戻り、親子で伊勢国二見の浦に帰っていきます。

長谷川端校注・訳「新編日本古典文学全集・太平記」小学館 及び 兵藤裕己校注「太平記」岩波書店を参考にしています
(文:久田要)