能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

鸚鵡小町(おうむこまち)解説

シテ:小野小町     ワキ:新大納言行家
作者:不詳     出典:十訓抄・第一の26成範民部卿一字の返歌  古今著聞集  阿仏抄

あらすじ

(十訓抄・古今著聞集では)
小野小町は平安時代前期の女性歌人で、古今和歌集などに62首が、今に伝わっています。日本各地に小町伝承が残っていますが、生い立ちや人となりは謎に包まれ、小野氏(平安貴族の一氏族)の出身であることぐらいが確かなことです。 小野小町は、若く美しいときには、頗る周りからもてはやされました。錦繍の衣を重ね、海陸の珍味を食し、蘭麝香を匂わし、口には和歌を詠じて、よろずの男達を軽んじて、女御・后との交際を重んじました。しかし、十七にして母を失い、十九にて父におくれ、二十一にして兄に別れ、二十三にして弟に先立たれたので、単孤無頼の一人になって、頼む人も無くなってしまいました。繁栄は日々に衰え、容色も年々にすたれ、家はやぶれ、月のみむなしく澄み、庭は荒れてしまいます。そんな折、文屋康秀が三河守(古今集では三河掾(じょう)となっている)となり、任地に下る際に同行を誘われます。「わびぬれば 身をうき草の 根をたえて さそふ水あらば いなんとぞおもふ」などと詠んでいます(同行したか否かは分りません)。次第に衰え、果てには野山をさすらうようになります。心には悔しいこともあったでしょう。と書かれています。
十訓抄には他に、成範民部卿(少納言通憲かも)の話として、次の話が載っています。成範が罪を得、配流されて後許され、内裏に参った際に、女房の中に昔を知っている人がいて「くものうへは ありしむかしに かわらねど 見したまだれの うちやこひしき」と詠みました。成範が返歌しようとしますと、小松の大臣(平清盛の長男重盛)が来られたので、慌てて「や」の文字を消して、「そ」の文字を書いて御簾の内に差し入れられたということです。時代が少しくい違いますが、この話の成範を晩年の小野小町と読み替えて、本曲の話がつくられたと思われます。
(能のあらすじ)
陽成院は、出羽の国小野良実(よしざね)の娘・小野小町が百歳の姥となって、関寺に居ると聞き、新大納言行家を使いとして、御製の歌を贈ります。行家が関寺を訪ねますと、小町が落ちぶれた老いの侘しさを嘆きながら現れます。行家が声をかけると、関寺辺りの風物を称えます。行家は、帝からの憐れみの歌を渡しますが、小町は老眼で文字も見えないので、読み上げてもらいます。「雲の上は ありし昔に 変らねど 見し玉簾(たまだれ)の 内やゆかしき」(宮中は、小町がいた昔と変わりはないが、かつて見馴れた宮人たちの、今の様子を見たくはないですか)の歌を伝えると、自分の返歌は「ぞ」の一字だと言います。行家がいぶかしむと、「…………見し玉簾の 内“ぞ”ゆかしき」(宮人たちの、今の様子を知りたく懐かしく思います)が返歌で、これを鸚鵡返し(おうむがえし)と言い、古来よりある和歌の一様式であると言います。そして、歌人として、美人として誉れ高かった昔を回想し、老いた今を嘆きます。行家は、業平の玉津島明神(祭神の一柱は衣通姫、小町も参詣して和歌を詠んだことがある)での法楽の舞を舞うことを勧めます。小町は舞を舞い、懐旧の涙にくれます。行家は都へ、小町は柴の庵へと別れます。。

永積安明校訂「十訓抄」岩波文庫刊を参考にしています
(文:久田要)