シテ:小野小町 子方:稚児 ワキ:関寺住僧 ワキツレ:従僧(2~3人)
作者:世阿弥 出典:各地の小町伝説
あらすじ
(伝説等では)
小野小町は、生まれた地も、亡くなった場所も全く解りません。しかし、小野氏(平安貴族の一氏族、祖先には小野妹子など)の出身ということは確かなようです。元々小野氏は東北地方に縁が深く、小町は秋田県湯沢市に生まれたという伝説もあります。米の品種の「あきたこまち」、秋田新幹線の「こまち」などはこの伝説に由来します。伝説の元は、古今和歌集の出羽郡司娘という記述だと言われています。出羽郡司・小野良実(小野篁の息子)の娘ということになれば、漢学者・歌人の篁(たかむら)の孫ということになります。小野氏は、小野道風など文人として秀でた人材を輩出しており、小町もこの流れなのでしょう。詳しくは解りませんが、宮中に勤め、美貌と知性と歌の才能を兼ね備え、数多の貴公子から恋心を寄せられますが、ことごとく拒んだといいます。こんなところから、驕慢で、鼻持ちならない女という評価にもなったようです。現代にもいそうですね。あまりの美しさに、絵にも描けないのか、後ろ姿の絵が多いようです。
本曲の関寺は、近江国・逢坂の関付近に在った大寺院ですが、今はほとんど面影もありません。僅かに長安寺として、一堂が残ってい、境内には「一遍上人供養塔」や「小野小町供養塔」があるそうです。
(能のあらすじ)
七夕の日に、近江国関寺の住僧が稚児を伴い、寺近くの庵に住む、歌道を極めた老女を訪ねます。庵では老女が、衣食もままならないと、老いの身を嘆いています。僧は、歌の稽古中の稚児達のために、歌道の物語を所望すると、手習いの始めとしては、難波津の歌と安積山の歌を教えます。さらに僧が女流歌人を尋ね、「我が背子が 来べき宵なり ささがにの 蜘蛛の振舞い かねて著しも」(能曲「土蜘蛛」にあります)は女の歌ですか、と問い、老女は衣通姫の歌だと答えます。さらに、「侘びぬれば 身を浮草の 根を絶えて 誘う水あらば 往なんとぞ思ふ」は小野小町の歌ですね、と問うと、大江惟章(最初の夫とも……)が心変わりして、心が沈んでいた折、文屋康秀が私を誘ったときに詠んだ歌です、と口をすべらせてしまい、僧は目の前の老女が、小野小町のなれの果てと気付きます。老女は若き日々を偲びながらも、今の老いの身の弱り行く果てぞ悲しきと嘆きます。稚児が、今宵の七夕の祭りに老女を誘います。祭では、童舞に心動かされ、昔の五節の舞を思い起こし、舞を舞います。そして明け方の鐘が鳴り、暗いうちにと、元の藁屋に帰っていきます。
(おわりに)
紀貫之は、古今集の仮名序で小野小町を評しています。昔の衣通姫(そとおりひめ)の流なり、あはれなるやうにて、強からず、いはば、よき女のなやめる所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし、と述べています。衣通姫は、絶世の美女の誉れ高い女性ですが、非業の死を遂げています。
随心院発行「小野小町と随心院」及び2015.04.07刊読売新聞「神秘に包まれた小野小町」を参考にしています
(文:久田要)