能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

卒都婆小町(そとばこまち)解説

シテ:小野小町     ワキ:高野山の僧     ワキツレ:従僧
作者:観阿弥     出典:各地の小町伝説     玉造小町子壮衰書

あらすじ

(玉造小町子壮衰書では)
校注者の前書きに、「玉造小町子壮衰書は著者不明で平安中期~末期に成立した長文の序をもつ古詩です。老いさらばえて町を徘徊する女が、往時の贅沢の限りと親兄弟の死によって零落し悲惨をきわめる老境を綿々と語る。この物語の主人公は小野小町ではないが、小町の物語として読みつがれてきて、小町像の形成に多大の影響を与えてきました」とあります。この書の影響で、落魄の小町像が出来上がったようです。
私が大路小路のそぞろ歩きの時のこと。女一人、姿痩せ衰え、身は疲れ果てていた。肌は凍った梨の実のようにかさかさ。…………朝夕の食事もままならない。ぬかやくず米も食い尽くし、旦暮の命もはかりしれない。…………女盛りの時には贅沢の限り、齢十六にもならぬに、後宮の美女と妍を競うほど。華帳の中にちやほやされ、外歩きすることもなし。…………、と壮衰を長々と書き連ねます。
晩年は、近江国・逢坂関の東にあったとされる関寺に庵を結んでいたとも、山科小野の随心院に余生を過ごしたとも伝えられています。また京都・市原野の補陀洛寺(小町老衰像がある)には、小町終焉の地との伝承が残っています。いづれにしても、小町伝承は全国的にも多く、決め手がありません。
(能のあらすじ)
高野山の僧が、都に上る途中、鳥羽の辺りで休んでいます。すると一人の乞食老婆が現れ、美しく驕慢だった若い頃を語り、もう百歳にもなって、今は人の見る目も恥ずかしい程の老婆になった、と独り言をつぶやきます。そして疲れたと、近くにある朽ちた卒塔婆に腰掛けます。僧がそれを見咎め、仏体色相の卒塔婆に腰掛けるとはと、他で休むように言いますが、老婆は素直にあやまらず、仏体の謂れは如何に……、など仏法の奥義で、弁舌鮮やかに反論します。僧は、真に悟れる乞食だと感心し、拝礼します。乞食老婆は歌を詠み「極楽の 内ならばこそ 悪しからめ そとは(外は=卒塔婆)何かは 苦しかるべき」と戯れます。僧が名を問うと、自分は、出羽の郡司小野良実の娘で、小野小町のなれの果てだと明かし、さらなる僧の問いに、首にかけた袋には粟豆の乾飯を、背中の袋には垢じみた衣を、肘にかけた籠には黒くわいを入れ、破れ蓑、破れ笠の姿でさすらう物乞だと自嘲するうち、急に狂乱の様となります。それは、かつて小町に恋慕し、九十九夜通って死んだ深草少将の怨念がのり移ったものです。小町は百夜通いの様を見せますが、我に返ると、真の悟りの道に入りたいと願います。
(おわりに)
小野小町の若かりし頃、深草少将が恋焦がれ、小町の求めるまま、伏見深草から山科の里まで5~6Kmの道を、毎夜徒歩で通います。今日が百日目という日、烏帽子に服装を整えて出かけますが、体調を崩し、雪に埋もれてこの世を去りました。このことを題材にした能の曲に「通小町」があります。また、本曲以外に、晩年の小町を題材にした能の曲に「鸚鵡小町」「関寺小町」があります。

杤尾武校注「玉造小町子壮衰書」岩波文庫刊 及び随心院刊「小野小町と随心院」を参考にしています
(文:久田要)