前シテ:海人 後シテ:龍女 子方:房前大臣 ワキ:従者 ワキツレ:従者(2~3人) アイ:浦人
作作者:不詳 出典:讃州志渡寺縁起 日本書紀允恭記 大織冠物語
あらすじ
(讃州志渡寺縁起では)
藤原鎌足の息女は唐の高宗皇帝の后に迎えられ、唐に渡っていましたが、父鎌足追悼のため兄である藤原不比等が寺を建立する志を知りました。そこで妹は高宗皇帝が大切にしているどちらから見ても釈迦三尊の姿が正面に見える「不向背珠」の宝珠を貰い、自ら寺に納める宝に加えました。しかし、妹がこれらの宝を日本に送り届ける途中、船が“房前”の沖合いにさしかかると海が荒れ出し、海の中から竜神の手が出てきて宝珠は奪われてしまいました。天武天皇七年(679年)不比等は竜神に奪われた宝珠を取り返すため志渡浦に渡りました。そして、この地で出会った海女との間に子供をもうけました。不比等は海女に事情を語り、海に入り龍神から宝珠を取り戻すことができたら、子供の房前を藤原家の跡継ぎにすると話しました。海女はわが子のためと思い、腰に布で糾(あざな)った縄をつけ海底深く潜り宝珠を取り返しました。竜に追われた海女は自分の乳房に玉を隠し、縄に曳かれて帰ってきましたが、自らの命も絶つことになりました。不比等は海女を悼み、ここから乾(西南)の方角に以前からある小堂の地に埋葬し、堂宇を覆うように五間四面の精舎を建立し、死渡(しど)道場と名付けました。天武天皇10年、不比等は子供を抱き、都に帰り宝珠を興福寺の本尊、釈迦如来の御頭に納めました。ことの次第を聞かれた天皇は感動して不比等には淡海公を、海女との子供には房前臣の号を贈りました。(讃州志度道場縁起の要約文)
(前場)
房前(ふささき)大臣は讃州(香川県)志度の浦で没した母の追善に赴きます。そして、一人の海人が来たので、従者が女に、水底の月を見るのに障りがあるので、海松布(みるめ)を刈るように命じます。女は、昔も明珠を海に潜り取り上げ……、海人の一言を聞き咎め、故事を詳しく話すよう勧めます。昔唐土から贈られた三種の宝のうち、「面向不背」の玉がこの浦の沖で竜宮に奪われてしまったので、不比等大臣は身をやつしてこの浦に下り、いやしき海人乙女と契り、儲けた子が房前だと話します。これを聞き、自分こそ、その房前だと名のります。女はそれを聞き、子供を世継ぎにする約束で、母海人が落命してまで珠を取り戻した様子を語り、その功で自分の子供が世継ぎとなり、この浦の名に寄せて房前の大臣というようになったと語り、自分はあなたの母海人の幽霊だといい、手紙を残して波の底に消えていきます。
(後場)
大臣は、亡き母の手紙を読み、追善供養を行ないます。すると、読経のうちに、亡霊は龍女の姿で現れ、法華経の功徳で成仏できたと喜び、舞を舞います。
(おわりに)
藤原北家の祖となる房前は、長じて父不比等から母の死の委細を知り、13歳の時、亡き母の菩提を弔うため、僧行基を伴って房前の浦に来て、堂宇を尋ねました。そして、この道場を修築して「志渡寺」とし、千基の塔と墓を建て、法華経八巻を奉納し盛大に法華八講の法会を催して、母の霊を慰めました。
さぬき市広報「さぬき」2009年10月号 No90 を参考にしています
(文:久田要)