能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

蟻通(ありどおし)解説

シテ:宮守     ワキ:紀貫之     ワキツレ:従僧(2~3人)
作者:世阿弥     出典:俊秘抄(上)  貫之集

あらすじ

(俊秘抄では)
「俊秘抄」とは、1113年に源俊頼によって書かれた歌論書で、別名を「俊頼髄脳」「俊頼口伝」とも言います。関白藤原忠実の娘・泰子(鳥羽天皇の皇后)のための作歌の手引書です。
貫之が馬に乗って、和泉国の蟻通明神(大阪府泉佐野市)の前を、夜なので暗く神の前とも知らず通った際に、馬が俄かに倒れ、起き上がることができません。どうしたことかと驚き、わずかの火の明かりで見ると、鳥居が見えました。いかなる神かと尋ねますと、蟻通明神といい、物咎め(ものとがめ)する神ですといいます。もしかして馬に乗りながら通ったのかと、人が聞きますので、いかにも神のおはしますのも知らないので、入ってしまいましたと答えます。そこで、どうすれば良いのか、神社の禰宜を呼んで相談すると、汝が知らずに馬で前を通ったのであれば、許すべきと思うが、汝は和歌の道を究めた者であるから、和歌を詠んで許しを得てはどうでしょう、これは神の託宣ですと言います。貫之は水で身を清めて歌を詠み、御殿の柱に押し当て拝み入りますと、暫くして馬が起きて身震いし立ち上がりました。その歌は「あま雲の 立かさなれる 夜はなれは ありとほしとは おもふへきかは」。これは、歌が神慮を鎮めるという歌徳説話というものです。
(能のあらすじ)
紀貫之が従者を伴って玉津島明神に参る途中、里近くなった時、俄かに暗くなり大雨が降ってき、おまけに乗っていた馬までが倒れ伏せ、途方にくれます。そこに傘を差し松明を持った宮守の老人が、さびれた社頭を嘆きながらやってきます。貫之が困っていることを告げると、蟻通明神の境内に下馬せずに、馬で乗り入れた為、咎めを受けたのだと答えます。よく見ると、なるほど鳥居や社殿があり神社です。貫之は畏れ多いと反省します。宮守は、相手が紀貫之と聞き、歌を詠んで神慮を慰めるように勧めます。貫之は「雨雲の 立ち重なれる 夜半(よわ)なれば ありとほしとも 思ふべきかは」と詠み、宮守は“蟻と星とも”と掛けてあるところが面白いと褒め、貫之が和歌のめでたい謂れを述べると、馬が元の如くに歩みだします。貫之は神の許しを得たと喜び、宮守に祝詞を所望します。宮守は祝詞をあげ、神楽を舞い、自分は蟻通明神であるとほのめかし、鳥居の笠木に立ち隠れ、消えていきます。貫之も神慮を喜び、夜明けと共に、旅を続けます。
(おわりに)
変わった社名の伝承が「枕草子」に記載されています。昔、唐(もろこし)から難題を突きつけられた際、某中将が、くねくねと曲がった孔のある七曲の玉の穴に、蟻を使って糸を通して難題を解決し、後に蟻通明神として祭られたというものです。他にも、中世熊野三山参詣の様子が「蟻の熊野詣」と評されます、熊野街道沿いに立地していたため、という説もあるのだそうですが、これは余り面白くありませんね。

関西大学図書館蔵「俊秘抄」俊頼髄脳研究会編 和泉書院刊を参考にしています
(文:久田要)