前シテ:尉 後シテ:宮人 ツレ:姥 ワキ:西行法師 アイ:末社
作者:金春禅竹 出典:「撰集抄」巻5・11話
あらすじ
(撰集抄では)
まず始めに「撰集抄」について簡単に説明します。成立は鎌倉時代の初期、江戸時代まで西行法師の作と信じられていましたが、その後、後人の仮託であることが研究によって明白になりました。撰集抄の中の西行法師と江口の遊女の関係を扱った話の中に、本曲の歌が出てまいります。
治承2年(1178年)西行法師と、ある聖の二人が江口(大阪東淀川区の地名)を訪れ、遊女の中にも多くの往生を遂げる者がいるのは、いつも後世のことを思っている者は、口が悪くても、手に悪い振る舞いがあっても、心が麗しいからだろうと、話し合っています。里を過ぎようとすると、時雨が激しく降り出したので、家の内を見ると、雨漏りを防ごうと、尼が板切れをもってウロウロしています。何となく「賤がふせやを ふきぞわづらふ」と下の句を詠ずると、それが聞こえたのか「月はもれ 雨はたまれと 思ふには」と上の句を返してきます。西行法師等は面白く思い、一晩泊まって連歌をして遊びました。
(前場)
嵯峨の奥に住む西行法師が、宿願があり住吉明神に参詣します。そうこうするうち日が暮れたので、一軒の庵に宿を求めます。家の尉は、余りに見苦しい家なので、宿は貸せないと断りますが、横から姥が、これは世捨て人のこと、まあお入りと誘います。そして、自分たち夫婦は、秋ともなれば、月を思い、また雨をも待つ心持の者だといいます。姥は月を愛で、家の軒を葺きません。尉は村雨の音を楽しむため軒の半分を葺いています。尉は「賤が軒端を 葺きぞわづらふ」と歌の下の句を詠い、西行に上の句を継いだら宿を貸そうと云います。西行はすぐに「月は洩れ 雨はたまれと とにかくに」と詠じますと、関心した尉は宿を貸します。季節は秋、三五夜中(3×5=15で十五夜)の新月の夜です。村雨の音がしますが、それは秋風の音です。姥は、月夜に砧を打ち、岸打つ波の音をも聞きながら過ごします。やがて夜も更けたと、老人は寝ようといって消えていきます。
夢うつつの西行のもとへ、末社の神が現れ、昨夜の老人夫婦は住吉の神で、西行の参詣を嬉しく思い現れたのだと説明します。
(後場)
住吉明神の乗り移った宮人が現れ、西行の訪問を、和歌の神である自分とも友と喜び、舞を舞います。やがて神は離れていき、元の宮人となって家に帰ります。
(おわりに)
撰集抄を題材にした、別曲が「江口」です。そこでは、江口の遊女を主役にして、西行法師は歌だけで、舞台には登場しません。本曲では西行法師は登場しますが、「撰集抄」とは話の設定がかなり異なっています。映画などと同様に、原作と脚本の違いが感じられて、面白いものです。
安田・梅野・野崎・河野・森瀬 校注「撰集抄(上)(下)」現代思潮新社刊を参考にしています
(文:久田要)