能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

春日龍神(かすがりゅうじん)解説

前シテ:尉     後シテ:龍神     ワキ:明恵上人     ワキツレ:従僧(2~3人)     アイ:社人
作者:不詳     出典:「古今著聞集」巻二64 高辨上人例人に非ざる事ならびに春日大明神……

あらすじ

(古今著聞集では)
高辨上人(号は明恵)の幼い頃、文覚房が「此の稚児は只人ではない」と、弟子にして高雄(神護寺……和気清麻呂ゆかりの寺)に住まわせました。稚児は学問一筋で、他のことは何もしません。丁度、神護寺再興の工事中で、多くの大工が仕事をしています。明恵はそれをうるさく思い、山の奥の庵で学問をしています。二・三日に一度食事に降りてきますと、七・八人分の食事をとって帰っていきます。あるとき、弟子十余人と供に学問のため天竺に渡ろうと考え、春日明神に暇乞いに参りますと、鹿60頭が膝を折って地に伏し、上人を敬います。その後、生所の紀伊湯浅郡へ向かいますと、上人の伯母に春日大明神が憑いて「上人我が国を捨てて、どこへ行こうとするのか……」との託宣がありました。上人は託宣を疑いますが、様々の不思議な奇跡を見せられ、遂に天竺行きを諦めます。
古今著聞集にはありませんが、後日、明恵上人は後鳥羽院から、高雄山神護寺に隣接する栂尾(とがのを)の地を賜り、高山寺の開祖となります。
(前場)
栂尾の明恵上人は、入唐渡天(唐・天竺(インド)に渡ること)を志し、暇乞いに春日明神に参ります。宮守の翁が現れ、明恵上人の入唐渡天の意思を聞きますが、春日明神は明恵上人を太郎、笠置の解脱上人を次郎と名づけ、特別大事に思っているのに、入唐とは神慮に背くものであるからと、思い止めようとします。上人は仏跡を拝むための入唐なので、神も咎めないだろうと云います。宮守の翁は、釈迦が在世の時ならいざ知らず、釈迦入滅の今では、春日山こそ霊鷲山(りょうじゅせん……釈迦の説法・教化の場)で、鹿も膝を折って上人を迎えたでしょうと、さらに入唐を思い留めます。
上人は、これは神託だと思い入唐を諦め、宮守の名を問います。宮守の翁は春日明神の使者で、名は時風秀行と名乗り、釈迦の誕生から入滅までの一代記を見せようと、約束をして消え失せます。
社人が現れ、三蔵法師の先例や仏法伝来の苦難を語ります。
(後場)
春日の野山が金色の世界となって、八大龍王が百千の眷属を引き連れて現れ、激しく舞を舞い、明恵上人が入唐を思いとどまったことを確かめ、龍神は大蛇となって猿沢の池に消えていきます。
(おわりに)
明恵上人には数々の伝記・著作があるそうですが、中でも傑出しているのは、自身の夢の記録を書き続けた「夢記」ではないでしょうか。19歳から59歳までの40年間の夢が書かれ、その約半分が現在に伝わっているそうです。臨床心理学者の河合隼雄氏は著書「明恵 夢を生きる」(講談社+α文庫)で詳しく論じています。

永積安明・島田勇雄 校注「古今著聞集」日本古典文学大系 岩波書店刊を参考にしています
(文:久田要)