能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

呉服(くれは)解説

前シテ:呉織(くれはとり)の女     後シテ:呉織の神     ツレ:漢織(あやはとり)の女     ワキ:臣下     ワキツレ:従者
アイ:里人又は末社
作者:不詳     出典:日本書紀の応神記・雄略記

あらすじ

(日本書紀では)
応神天皇記では、三十七年春二月一日、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉(中国三国時代)に遣わして、縫工女を求めさせた。阿知使主らは高麗国に渡って、呉に行こうと思った。さて高麗についたが道が分らず、道を知っている者を高麗に求めた。高麗王は久礼波・久礼志の二人をつけて道案内をさせた。これによって呉に行くことができた。呉の王は縫女の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の四人を与えた。とあります。
雄略天皇記では、十四年春一月十三日、身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末(たなすえ)の才伎(てひと)、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)と衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)らを率いて、住吉の津に泊った。この月に呉の来朝者のため道を造って、磯果(しはつ)の道に通じさせた。これを呉坂と名づけた。三月、臣連に命じて、呉の使いを迎えさせた。その呉人を桧隈野(飛鳥の一地区)に住まわせた。それで呉原と名づけた。衣縫の兄媛を、大三輪神社に奉った。弟媛を漢(あや)の衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥の衣縫部・伊勢の衣縫部の先祖である。とあります。
応神天皇の在世時代は不明ですが、雄略天皇は、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘と熊本県江田船山古墳出土大刃に記されている「ワカタケル大王」に比定されており、5世紀後半の人と考えられています。
(前場)
朝臣が西宮明神参詣の途次、呉服の里に着きます。そこに二人の女が現れ、松原で機を織り、糸を引きます。朝臣が声をかけますと、二人は、応神天皇の御宇に衣を織った呉織と漢織だと名のり、今は又、めでたい御代なので現れたのだと言います。そして、この地を呉服(くれは)というのも、私に因んだからだと述べます。また、呉の国から渡来した次第を述べ、今夜も帝に衣を供えようと約束し、丑三つ刻に姿を変えて現れると言い、消えうせます。
朝臣は松陰に、神の告げを見ようと待っています。
(後場)
呉織の霊が現れ、御代を寿ぎ、浜辺で機を織る様を謡い、華やかに舞を舞い、大君に綾を捧げます。
(おわりに)
本曲の舞台は、大阪府池田市の呉服神社辺りと思われます。雄略天皇記では呉織(くれはとり)は伊勢の衣縫部の先祖と書かれていますが、呉服神社には、この地に迎い入れたと伝わる呉織を祀っています。また着物を意味する「呉服(ごふく)」という言葉も、この地から始まっています。本曲が作られた時代には、当然のことだったのでしょう。

宇治谷孟著「日本書紀(上)全現代語訳」講談社学術文庫刊 を参考にしています
(文:久田要)