能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

西行桜(さいぎょうざくら)解説

シテ:老桜の精     ワキ:西行上人     ワキツレ:花見人     ワキツレ:同行者(数人)     アイ:能力
作者:世阿弥     出典:「山家集」和歌

あらすじ

(出典について)
まず、西行の人となりを大まかに説明します。本名佐藤義清(のりきよ)、平安末期の歌人です。元は鳥羽院の北面の武士(名誉ある精鋭部隊)で、文武両道に優れ、美形でもあったと伝えられています。しかし、1140年22歳の若さで出家します。出家の理由は諸説ありますが、源平盛衰記に記されているように、非常に高貴な上臈女房と関係をもってしまったのを、主上(帝)に見抜かれてしまった故の出家だという恋愛説が、浮世の成功に拘らない西行の生き様に近く、面白いように思われます。彼は終生山里の小さな庵で、和歌を通じて悟りに到ろうとしました。よく旅にも出、旅の詩人とも言われています。奥州平泉から帰京した後は、高野山に庵を結びます。四国の巡礼では崇徳上皇の墓前で歌を詠じてもいます。その後、70歳を目前に高僧・重源の求めで、焼失した東大寺大仏再建のための砂金交渉に、再度の奥州行きを決行します。この時には、途中鎌倉で源頼朝に面会し、終夜にわたり会談をしたということです。当時から有名人だったのでしょう。歌は生涯2,000首以上詠まれ、新古今集に最多の94首が採択されています。桜の歌も約230首あるそうです。1189年71歳で大阪河内の弘川寺に庵をむすび、ここが終焉の地となります。辞世の歌ではありませんが、「願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月の頃」の歌の通りの入定(上人が亡くなること)だったそうです。
(能のあらすじ)
ここかしこの花の名所を眺め廻(めぐ)っている、下京辺の者達が、西山の西行の庵の花が盛りと聞き、やってまいります。西行は、一人心静かに花を楽しもうと、今年は花見禁制にしています。花見人は中に入れるよう、能力(寺男)に仲介を頼みます。西行は煩わしく思いますが、遥々来た人々を断りかね、迎え入れます。が、やはり一人で花を眺めたい思いの西行は、思わず「花見んと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の とがにはありける」と口ずさみます。その夜は、皆で花の下に臥して眺め明かそうと、仮寝しています。すると夢の中に、「埋木(うもれぎ)の 人知れぬ身と 沈めども 心の花は 残りけるぞや」と桜の木から白髪の老人が現れ、西行に先程の歌の「桜の咎とはなにか」心を尋ねるために来たのだと話します。草木は非情無心で、浮世の罪はないのだと云い、自分は老木の桜の精だと名乗ります。そして、西行に会えたことを喜び、京中の名所の桜を称えて舞いを舞います。やがて夜が明け、老桜の精は惜しみながらも消えていき、西行の夢も覚めます。辺り一面は桜の花びらが散り敷いています。
(おわりに)
本曲の舞台となった庵は、京都西山大原野の勝持寺(通称花の寺)と思われます。西行はこの寺で剃髪・出家し、庵を結んだと伝わっています。今も春には、隣接する大原野神社とともに、桜の名所として賑わっています。近くには「伊勢物語」で有名な、在原業平ゆかりの小塩山十輪寺もあります。

(文:久田要)