能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

石橋(しゃっきょう)解説

前シテ:童子     後シテ:獅子     ワキ:寂昭法師     アイ:有無両様
作者:不詳     出典:十訓抄

あらすじ

(十訓抄では)
三河守の大江定基、思いの深かった女が亡くなってしまったので、世を憂きものと思うようになりました。五月の長雨の頃、まんざらでもない女が、ひどく身なりを落として鏡を売りにきたので、取って見ると、包み帋(かみ)に歌が書いてあります「けふのみと 見るに涙の ますかがみ 馴にし影を 人に語るな」(今日を限りと見るならば、涙が増してくる、(曇りの無い鏡で)見馴れた女性の姿の話を人に語ってはいけません)。この歌を見ると、涙が止まらない。鏡を返して、色々と思いにふけります。出家の意思をいよいよ固めたのは、この出来事によるのでした。出家し、名を寂昭上人と改め、唐に渡りました。唐の地では名を円通大師と呼ばれます。清涼山の麓で往生を遂げる時に詩をつくりました「笙歌遥聴孤雲上 聖衆来迎落日前」。但しこの詩、慶滋保胤(よししげのやすたね)の創ったものとも云われています。
清涼山とは五台山の別名、中国四大霊場のひとつです。五台山は文殊菩薩、峨眉山は普賢菩薩、九華山は地蔵菩薩、普陀山は観音菩薩の住む聖地とされています。
(前場)
大江定基は出家して寂昭法師と号し、中国、インドの仏蹟を廻り歩き、清涼山にやって来ます。石橋の前で、人に話を聞いてから渡ろうと待っています。そこに一人の童子が来ます。童子は、向かいが文殊の浄土・清涼山なので、よくよく拝みなさいと教えます。法師は石橋を渡ろうとしますが、童子は言います。石橋は細い上に苔で滑りやすく、下は数千丈の滝壺、石の幅は一尺(30センチ)にも足りず、長さは三丈余(10メートル)。石橋は人間の造ったものではなく、自然と出現したもので、容易に渡れるものではないと留めます。そして、やがて奇特が現れるから暫く待ちなさいと、言い残して立去ります。
(後場)
待つ程もなく、獅子が石橋の上に現れ、咲き乱れた牡丹の花に舞い戯れ、枝に伏し転び、万歳千秋を祝い、舞い納めます。
(おわりに)
この曲は、ほとんどの場合「半能」として、後半だけ舞われます。今日では、前後を通じて上演されることは極めて稀です。………この曲の後シテは、本来赤頭の獅子が一人舞うものですが、様々な特殊演出があります。近年は、一人の方が珍しく、普通は二人です。二人でる時は、白と赤になり、親と子、兄と弟など………(能楽手帳・石橋より抜粋)。一日の演能の最後を締める本曲は華やかな余韻を残します。

永積安明校訂「十訓抄」岩波書店刊を参考にしています
(文:久田要)