能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

鉢木(はちのき)解説

前・後シテ:佐野源左衛門常世     ツレ:常世の妻     前ワキ:旅僧     後ワキ:最明寺時頼     ワキツレ:二階堂某
アイ:早打・二階堂下人
作者:世阿弥(一説)     出典:増鏡・巻9「草枕」  太平記・巻35

あらすじ

(増鏡では)
故時頼朝臣は、康元元年に頭おろし(剃髪し)てのち、忍びて諸国を修行しありきけり。それも国々の有様、人の愁えなど、くはしくあなぐり(詳しく)見聞かんの諜(忍び)にてありける。あやしの(粗末な)やどりに立寄りては、その家主が有様を問い聞き、ことわりある(道理のある)憂へなど(訴訟など)のうづもれたるを聞きひらきては、「われ(我)はあやしき身なれど、昔よろしき主をもち奉りし、未だ世にやおはすると、消息(手紙を)奉らん、もてまうでて聞き給へ」などといへば、「なでふ事なき(つまらない)修行者の、何ばかりかは」と思ひながら、いひあわせて、その文を持ちて、あづま(関東)へ行きて、しかじかと教へしままに(修行者の教えるまま)いひて見れば、入道殿(時頼)の御消息(手紙)なりけり。「あなかま(静かに)、あなかま」とて、永くうれへ(憂い)なきやうにはからひつ(取り計らった)、仏神などのあらはれ給へるかとて、皆額をつきて悦びけり、かやうの事すべて数知らずありし程に、国々も心づかひをのみしけり。最明寺の入道とぞいひける。
鎌倉幕府の第5代執権の北条時頼は20歳で執権となり、30歳で執権を辞任して出家、37歳で没します。三浦氏を滅ぼすなど専断の一方、温情の執権でもありました。
(前場)
旅の僧が、信濃から鎌倉に帰る途中、上野国佐野のあたりで雪が深くなり、一軒の家に宿を乞います。家の妻は、今主人が留守なので待つように伝えます。やがて、雪の中を帰った主人は、余りに見苦しい家なので宿を断り、十八町先の山本の里で宿を探すよう先を勧めますが、妻は、この大雪なので泊まっていただこうと言い、主人は僧を呼び戻します。そして粟飯を出してもてなし、秘蔵の梅桜松の鉢木を火にくべて暖をとります。僧が夫婦の人となりに感じ、主人の名を尋ねると、佐野源左衛門常世のなれの果てと答え、領地を一族の者に横領されて落ちぶれているが、鎌倉に大事があれば、一番に馳せ参ずる覚悟を述べます。翌朝僧は、鎌倉に上ることがあれば訪ねてくれといい置いて、立去ります。
その後間もなく、鎌倉で兵を集めるというお触れがあります。
(後場)
常世も痩せ馬に乗り、駆けつけます。北条時頼は二階堂某に、見苦しき姿の武士を見つけろと、常世を探し出させます。時頼は常世に、過日の僧は自分であったと明かし、忠誠を賞して、横領された旧領を戻し、さらに、鉢木の礼に三カ庄を追加します。常世は喜び勇んで郷里へ帰っていきます。
(おわりに)
北条時頼の廻国(諸国を廻る)伝説には、史実論争はありますが、江戸時代の水戸黄門に先立つ、「中世の黄門」様でした。当時、武士団を治めるとは、領地を安堵することと、ほぼ同じ意味でした。

豊田武著「英雄と伝説」塙書房刊の北条時頼と廻国伝説 及び佐々木馨著「執権時頼と廻国伝説」より引用しています
(文:久田要)