能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

弱法師(よろぼし)解説

テ:俊徳丸     ワキ:高安通俊     アイ:通俊の下人
作者:観世十郎元雅     出典:俊徳丸伝説

あらすじ

(俊徳丸伝説では)
河内国高安の山畑(八尾市山畑地区)に居たとされる信吉長者には、長年子供がいなかったが、清水観音に願をかけることで、ようやく子供をもうけます。俊徳丸と名付けられた子は、容姿が良く、頭も良い若者で、そのため四天王寺の稚児舞楽を演じることとなります。この舞楽を見た、隣村の蔭山長者の娘・乙姫は俊徳丸に魅かれ、二人は恋におち、将来一緒になることを願うようになります。しかし継母は自分の産んだ子を世継ぎにしたいと願ったため、俊徳丸は継母から憎まれ、ついには継母によって失明させられてしまいます。さらに癩病にも侵され、家から追い出されてしまい、行きついたのは四天王寺でした。そこで俊徳丸は物乞いしながら何とか食いつなぐという状態にまでなり果てます。この話を村人から伝え聞いた蔭山長者の娘は四天王寺に出かけ、ついに俊徳丸を見つけ出して再会することになります。二人が涙ながらに観音菩薩に祈願したところ、俊徳丸の病気は治り、二人は昔の約束どおり夫婦となって、蔭山長者の家を相続して、幸福な人生を送ったそうです。それに引き換え、山畑の信吉長者の家は、信吉の死後、家運が急に衰退し、継母は物乞いとなり、最後には蔭山長者の施しを受けなくてはならないような状態になったといいます。
(能のあらすじ)
河内国高安に住む左衛門尉通俊は、さる人の讒言で追放した息子を不憫に思い、二世(現世と来世)安楽を願い天王寺で十七日施行(無心に布施をすること)を行ないます。そこに、悲しみのあまり盲目となり、人から弱法師と呼ばれている乞食が来て、施行を受けます。今日は春の彼岸の中日で、梅の花が弱法師の袖に散りかかり、花も施行と喜びます。さらに、四天王寺建立の由来を語り、仏の徳を語ります。通俊は、この乞食が我が子と気づきますが、人目を憚り、夜になって名乗りあおうと、日想観(西に沈む太陽を見て、極楽浄土を見る修行)を勧めます。天王寺の西門は、極楽の東門に通じているのです。俊徳丸は、かつて見慣れた難波の光景を思い浮かべ、心に映る景色に興奮し、狂じ歩きの末、往来の人にぶつかり転んでしまい、狂じるのを止めます。やがて夜も更け人影も絶えたので、通俊は名を名乗りますと、俊徳丸は我が身を恥じ、逃げようとしますが、父は追いつき、手をとって一緒に高安の里に帰ります。
(おわりに)
俊徳丸は伝説上の人物ですが、出身地とされる大阪府八尾市山畑地区には、俊徳丸鏡塚なる墓が伝わっているそうです。また、東大阪市の「近鉄電車俊徳道駅」や「俊徳道」と呼ばれる道路もあり、この伝説の根強さを物語っています。

インターネットHP・フリー百科事典「ウイキペディア」より引用しています
(文:久田要)